今なお続く「戦後」を生きる――失われた国籍と絆の回復へ 「忘れられた日本人」たちの願い(動画あり)

ナツエさん(写真左)は、生き別れた父親や戦後の厳しい生活を吐露。父親の娘として認められ、日本の戸籍に載ることが願いだ

1941年から45年まで続いた太平洋戦争で、国土の全てが日米の激戦地となったフィリピン。反日感情が高まるこの地に、終戦後、日本人の父親と生き別れたり、孤児となったりした日系二世たちが多く取り残された。彼らは、「人殺しのハポン(日本人)」の子どもとして、フィリピン人の激しい憎悪を一身に浴びて生きてきた。彼らは今も日本国籍を回復できず、無国籍状態にある人も多い。終わらない戦後を生きる残留日本人二世の様子を、彼らの就籍をサポートするNPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)の取り組みと共に伝える。

迫害と差別の中で

昨年11月、フィリピンを訪れた。東京から飛行機を乗り継ぎ11時間。フィリピン・ミンダナオ島の中心都市ダバオ市に着いた。そこから車で1時間半ほど走り、南西部の町パダダを訪れた。

未舗装の道路を進むと、竹で作られた家屋の並ぶ集落がある。その中にある小さな商店の休憩スペースにイデモト・ナツエさん(78)の姿があった。ナツエさんは、78年前の戦争で日本人の父親と生き別れた残留二世だ。この日、彼らの日本国籍回復に努めるPNLSC代表理事の猪俣典弘さん(54)=立正佼成会横浜教会=の聞き取り調査に同行した。

現地の様子(クリックして動画再生)

ダバオには1903年以降、多くの日本人男性が職を求めて移住した。彼らはフィリピン社会に受け入れられ、マニラ麻の栽培などで生計を立てながら現地の女性と結婚し、家庭を築いた。最盛期には、約2万人が日本人街に暮らしていたという。

「戦前は、多くの日本人が住んでいたそうです。父も、炭焼きやトウモロコシの栽培、漁業などを営み、家族10人を養ってくれました」とナツエさんは語る。

しかし、1941年末に太平洋戦争が勃発すると、日本軍は米国の植民地だったフィリピンを占領下とした。これは、移民を受け入れて一緒に暮らしていた日本人の裏切りと受けとめられ、フィリピン人ゲリラが激しく抵抗。これに日本軍は対抗し、スパイ容疑などで多くのフィリピン人を虐殺した。

戦況の悪化に伴い、現地の日本人男性が多数徴兵され、女性や日系二世も日本軍への協力を強いられた。米軍がミンダナオ島に上陸した後は山中を敗走し、飢えや病で多くの在留邦人たちが亡くなった。

「母は、乳児の私を胸に抱き、ここから100キロ以上離れたタモガンの山中まで逃げたそうです。今、私の命があるのは母のおかげさまです」

ナツエさんを胸に抱えた母親が逃げ回ったタモガンの山々。ここでは、米軍の攻撃や飢えで4000人以上が亡くなった

終戦後、ナツエさんの父親は日本に強制送還された。兄たちが農業で生計を立てたが生活は厳しかった。また、母親は子どもたちに日本語を話すこと、日本名を名乗ることを禁じた。日本軍の残虐行為に対する憎しみが残留二世へと向けられ、各地で迫害や差別が繰り返されていたからだ。

「食料を奪いに来た日本兵を父が追い払ったこともあり、私たちが地元の人から差別を受けることはなかったです。でも、別の地域で日本人が殺されたという話を母は聞いていたのでしょう。当時、日本人だと知られることは本当に危険だったのだと思います」

そのため、多くの残留二世は、両親の婚姻や自身の出生を証明する書類など日本人である証拠を消したり、山奥で隠れるように生きたりせざるを得なかった。両国とも父系血統主義であった当時、「日本人」であることを隠す一方、母方の戸籍も受け継げないため、多くの残留二世は今も無国籍状態のままだ。

聞き取りの途中、ナツエさんは古い写真を手にした。「1973年、父は家族を捜してフィリピンを訪れました。この写真は再会した時に撮影したものです。この時、父の姿を見たら喜びでいっぱいになりました」と話した。

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