第16回奈良県宗教者フォーラム 庭野会長の基調講演 要旨
第16回奈良県宗教者フォーラム(主催・同実行委員会)が9月27日、立正佼成会奈良教会で開催され、庭野日鑛会長が『「和」の心を現代に』と題して、50分にわたり基調講演を行った(ニュース既報)。当日は、29の宗教・宗派の宗教者をはじめ各教団の信徒ら130人が参集した。基調講演の要旨を紹介する。(文責在記者)
「和」の心を現代に
「和」という精神は、あらゆる宗教に共通する普遍的な価値であります。折しも、五月一日、新天皇陛下が御即位され、「平成」から「令和」へと御代が替わりました。
「令和」について、日本語研究の第一人者である金田一秀穂先生は、「『令』という字は、古い意味では『神様のお告げ』という意味」とおっしゃっています。そのことを私なりに解釈しますと、『「和」の実現は、神仏のお告げである』と受け取ることができます。
私たちの信ずる神、仏は、一切の生きとし生けるものが、真に和合して生きることを願っておられます。この神仏の願いを現代に実現していけるよう、たゆまず努力、精進していくのが、私たち宗教者の役割であると思います。
「和」について、多くの日本人が真っ先に思い浮かべるのが、聖徳太子によって定められた「十七条憲法」の第一条でありましょう。「和を以(もっ)て貴(たっと)しと為(な)す」――この言葉に込められた精神は、当時の国づくりの最も重要な規範であっただけでなく、現代においても、私ども日本人の国民性、精神性に深く息づいております。
例えば、礼儀正しい、謙虚である、相手が嫌がることはしない、気配りができる、あまり自己主張をしない、譲り合う……このような日本人の美徳とも言われる振る舞いは、人と人との「和」を大事にするという、先人から受け継いできた尊い精神性を踏まえて、行動に表したものだと思います。
また、日本の上代の国名は、「大和(やまと・だいわ)」と定められています。つまり日本は、「大いなる平和」「大いなる調和」の精神を終始一貫することを、国家的な理想としてきたと言えると思います。このことは、元来、日本の古今を通じる本願とも申すべきことなのであります。
しかし、現代の日常生活において、この「和」の精神は、しばしば極めて狭い意味で使われることがあります。極端な例かもしれませんが、犯罪をおかすような集団の中でも、お互いの「和」が求められるのであります。
本会の開祖である庭野日敬は、生前、「悪党という言葉はあるが、善党という言葉はない」と申しておりました。悪は徒党を組みやすい。つまり利害、打算、邪(よこしま)な心で結びつくのは、真の「和」ではないという戒めであります。
そもそも人間は、似たもの同士で群れる性質があります。それが、互いを励まし、成長させるものであるならば、なんら問題はありません。ところが、そうした限られた集団の中では、どうしても考え方が偏り、一方的に自己を正当化する傾向があります。そして時には、意に沿わない意見や他者を、批判し、排除するのです。真の「和」とは、そのようなものではなく、どんな人々に対しても、常に開かれたものでなければならないと、私は思います。
また、誰かが言ったことを鵜呑(うの)みにして従う、なんとなく周りの雰囲気に合わせる、つまるところ、自分の考えを持たずに人任せにする――そうした姿勢では、本当の「和」を築くことはできません。