第16回奈良県宗教者フォーラム 庭野会長の基調講演 要旨

出会いと対話によって

次に、「和」を実現するには、どのような行動が必要かという点について、話を進めてまいります。

仏教的に表現するならば、一人ひとりが菩薩(釈尊の教えを聞き、学び、実践する人)として生きることに尽きると思っております。

ここでは、本会が進めている具体的な活動の一端をご紹介させて頂きます。一つは、宗教者と宗教者との「和」を目指す活動です。本会における諸宗教対話・協力の活動は、庭野開祖が先頭に立って、その道を切り開いてきました。

昭和四十年(一九六五年)、開祖は、カトリックの第二バチカン公会議の第四期開会式に招かれ、その翌日に法王パウロ六世聖下と個別謁見(えっけん)をさせて頂いています。以来、開祖は、諸宗教対話・協力を一層力強く推進し、WCRP(世界宗教者平和会議)の設立に力を尽くすようになります。ただ、世間の目は厳しく、数々の中傷も浴びせられたといいます。

しかし開祖は、世界大会の開催を目指し、東奔西走しました。そのような力が涌(わ)き上がったのは、国内外に数多くの同志がいたからであります。そして昭和四十五年(一九七〇年)、京都で「第一回世界宗教者平和会議」が開かれ、世界三十九カ国から三百人を超える諸宗教者が集い合いました。

京都で行われた世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)の第1回世界大会

そのWCRPも、来年には、五十周年を迎えようとしています。そして今年八月には、第十回WCRP世界大会が、ドイツで開催されました。現在、世界九十カ国以上に国内委員会が置かれ、政府や国連と連携しながら、各地域の諸課題に取り組んでいます。

かつて、「夢に過ぎない」と揶揄(やゆ)された諸宗教間の対話・協力は、宗教を背景にした過激派組織の台頭とも相まって、「国際政治における最も現実的な課題の一つ」と言われるようになってきました。

「対話」には、いくつかの大事な特長があります。

第一は、対話を通して、相手を知ると同時に、自らを客観視するということであります。

第二には、学び合うことで、自他共に成長することができることです。

第三の特長は、対話によって、「共通の価値観」「普遍的な真理」に改めて気づくのであります。

第四は、何よりも、対話によって、相互の信頼を醸成することができます。

そして第五の特長は、対話の積み重ねが、やがては、宗教協力による具体的な行動を生み出すのであります。

この出会いと対話の大切さについて、かつて私は、大変印象的な経験を致しました。平成九年(一九九七年)、私は、WCRP国際委員会の事務総長と共に、旧ユーゴスラビア紛争が終結した直後のボスニア・ヘルツェゴビナを訪れました。当時、この国の復興、再建を進めるには、現地主要四宗教、つまりイスラーム、カトリック、セルビア正教、ユダヤ教間の対話推進が急務とされていました。

サラエボ市内の共同墓地で、慰霊供養をする庭野会長

私は、どの宗教にも属さない中立的な立場の仏教徒として、各宗教の指導者とお会いし、それぞれの意見を伺いました。そして、ボスニア滞在中に、四宗教代表が集い合う懇親会を、現地のレストランで開きました。

その時のことです。セルビア正教の代表が開会時間になっても顔を見せません。当時、クロアチア政権によってセルビア人への憎悪を募らせる宣伝活動が行われていました。またセルビア人武装勢力による大量殺戮(さつりく)や民族浄化と呼ばれる女性への暴行があったとして、国際的にも大きな非難を浴びていました。ですから次第に、「セルビア正教の代表は来ないだろう」という雰囲気になっていました。

懇親会が始まって二十分ほど過ぎた頃でしょうか。セルビア正教の代表が、緊張した面持ちをして会場に現れました。だいぶ赤い顔をしていましたから、お酒を口に含めて、勇気を出してやってきたように見受けられました。

私は、会場に不穏な空気が漂うかと心配しました。ところが、まったく違いました。一斉に拍手が沸き上がりました。「よく来た」というように肩を叩(たた)く人もいました。ボスニア・ヘルツェゴビナの宗教界に、出会いと対話が始まったと言えるような瞬間でした。

翌年、その四宗教の代表は、本会の施設で開催されたWCRP国際管理委員会に招かれ、同じ飛行機に乗って来日しました。そのことで、お互いの距離が一気に縮まったといいます。

さらにその翌年には、来日したメンバーが中心になって、ボスニア・ヘルツェゴビナ諸宗教評議会が設立されました。国内法に基づいて、法人として正式に認可された組織でした。その後、ボスニアの諸宗教者は、コソボ諸宗教評議会設立の仲介役を果たすなど、いまも積極的な活動を展開しています。

本会の施設で行われた国際管理委員会

私がボスニアの宗教指導者にお会いした際、「一体お前は何をしに来たのだ」というような無愛想な表情をしていた人がいました。イスラーム共同体最高指導者であったムスタファ・セリッチ師でした。いま彼は、私の良き友人であり、WCRP国際委員会の中心メンバーとして活躍しています。

出会いと対話によって、物事は大きく展開します。その一歩を踏み出さない限り、むしろ敵対心、警戒心が増していくだけかもしれません。先ほども申しましたように、「和」とは、常に創造的なものであると思います。

もう一つ本会の活動を紹介します。信者会員が参加する最も身近な取り組みです。困難に直面している人々と、私たちとの間に、「和」を築く活動と言うこともできます。それは、昭和五十年(一九七五年)から続けている「一食(いちじき)を捧げる運動」であります。一日三回の食事の中で、月に何回か一食を抜いて、食費分のお金を献金する運動です。

世界には、その日の食事も満足にとることができず、飢えに苦しんでいる人が大勢います。その空腹感を少しでも味わい、悲しみや苦しみを分かち合い献金することを最も大切にしています。「援助する側」「援助される側」という相対的な意識ではなく、皆が兄弟姉妹という自覚に立って、自分のできることをさせて頂くのです。

これまでに信者会員から寄せられた浄財は、累計で百四十六億円を超え、貧困の解消、人材育成、難民支援、環境保護、軍縮などに取り組む八百五十以上の団体や組織に寄託してきました。

こうした活動は、一義的には他者への奉仕ですが、同時に、一人ひとりの心を育てるかけがえのない機会であります。一人ひとりの心の転換という原点を大事にしながら、諸活動を進めることが、宗教者による活動の本領ではないかと思います。

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