特集・ありがとう普門館(3) 音楽ライター 富樫鉄火

普門館最後の吹奏楽

2011年3月、東日本大震災が発生。翌2012年5月、ホール内の天井部分の耐震強度不足が判明し、以後、普門館の大ホールは「使用不可」となった。コンクール全国大会は、2012年秋から、名古屋国際会議場センチュリーホールに移った。

その後、関係者が、なんとか「吹奏楽の聖地」として普門館をよみがえらせようと奔走する姿を、わたしは何度か見てきた。しかし、関係法令が変わってしまっており、改修も建て替えも容易でないことが判明した。先般、「解体」が正式に報じられたが、関係各位の無念を思うと、なんともいたたまれない。

結局、普門館で最後に「吹奏楽」が響いたのは、2012年4月14日。大阪府立淀川工科高校吹奏楽部の名物顧問、丸谷明夫先生が指揮した、東京佼成ウインドオーケストラの特別演奏会ということになってしまった(エイベックスから『マルタニズム』と題してライヴCD化されている)。たまたま、コンサートもCDも、わたしが解説を書かせていただいたが、これが、やはり普門館のために書いた、最後の文章になってしまった。

あまねく開かれた門

普門館の解体を聞いて、井伏鱒二の短篇『普門院の和尚さん』を思い出した(1949年に『普門院さん』の題で発表後、数度の改訂を経て、1988年に改題、最終稿)。

江戸幕府末期の幹部として近代化に尽力した小栗上野介は、薩長との対決を唱えたが罷免され、のちに逮捕。取り調べもなく、河原で無残に斬首される。正確な罪状は、いまだによくわからないらしい。

埼玉・大宮の「普門院」は、小栗一族の菩提寺である。昭和初期になって、この寺の住職が、小栗を斬首した役人が高齢で生きていることを知り、会いに行く。住職は、小栗の汚名をそそぎたくて、「どうしてあれだけの国家の功労者を斬ったのか」「あんた、悪いことをしたとは思わんか」と老人に問い詰めるのだが、とにかく命令に従ったまで、「はやく斬らないと、こちらの方が賊軍になる」「一度、上野介の御墓に、御香をあげたいと思っていた」と語る。やがて住職も落ち着いてきて、最後は、対立していた二人がともに仏前に並び、弔いのお経を唱える。寺名同様、「普門」(あまねく開かれた門)の境地に至ったということか。老人はぽたぽたと涙を流す。

立正佼成会の信者でもないわたしが普通に出入りし、吹奏楽コンクールからカラヤンまで――あの建物はほんとうに「普門」だった。
<一部敬称略>

プロフィル

とがし・てっか 音楽ライター。1958年、東京生まれ。中学から大学まで吹奏楽部でフルート、クラリネットを吹く。会社勤務の傍ら、吹奏楽を中心とした音楽小論、コンサート・プログラム解説、CDライナーノーツなどを執筆。現在、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」(FMカオン・調布FM)の構成・パーソナリティーを務める。