特集・ありがとう普門館(3) 音楽ライター 富樫鉄火

吹奏楽の聖地へ

その普門館に初めて入ったのは、1977年11月。しかも、4日(金)と16日(水)の2回、行っている。

11月4日(金)は、第25回全日本吹奏楽コンクール(全国大会)の初日で、夜、大学の部を聴きに行った。史上初のディスコ調課題曲≪ディスコ・キッド≫が話題となった年である。わたしは大学1年生になっていた。17時ごろから開会式で、表彰式終了が21時過ぎだった。

※クリックして拡大

どうやって入場券を入手したのかもおぼろげだが、当時は、早めに並べば当日券で十分入れたし、東京都大学吹奏楽連盟経由で、大学の吹奏楽部で購入していたような気もする。

普門館の客席に初めて入った印象は、とにかく「寒かった」。すでに晩秋で、会場内が広すぎて、エアコンが十分効かないような印象があった。その日は、妙に興奮して、ロビーをうろついたり、2階席を見に行ったりして、落ち着かない時間を過ごした。

この年の大学の部は7団体だったが、最初に出場した亜細亜大学がタイムオーバーで失格になる、驚くべき結果に遭遇した。大学の部の≪ディスコ・キッド≫は駒澤大学が名演として知られているが、この亜細亜大学も実に力強い演奏だった。わたしはいまでも、同曲の模範演奏だと思っており、以前に上梓(じょうし)した『全日本吹奏楽コンクール名曲・名演50』のなかで紹介したことがある。

普門館は、1972年に一度だけ全国大会(全部門の会場)に使用され、以後は地方開催。この1977年が、毎年使用の初年だった(東京大会の会場としては、それ以前より使用されていた)。その後、1980年からは中学・高校の部のみで使用され(大学・職場・一般の部は地方開催となった)、やがて、高校野球の甲子園に並ぶ「吹奏楽の聖地」と呼ばれるようになった。

【次ページ:「田園」を聴く「運命」に】