唯仏与仏
唯仏与仏(74) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
仏さまの教えを学ぶということは、生活のなかで教えを実行することです。そして、さまざまなできごとを素直に見聞きしていくことです。すると、ラジオを聞いたりテレビを見たり、新聞や雑誌を読んだりしてふれる話題や、多くの方にお会いして聞かせてもらう話が、すべて仏さまの説法と思えてきます。
唯仏与仏(73) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
仏さまを信じて仰ぐ心は、「法」に帰依(きえ)する心を深めていきます。そして、実生活に「法」を生かしていくなかで、その心が大きくはぐくまれていきます。
唯仏与仏(72) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
私は、「世の中にだめな人間などいない」と信じています。お釈迦さまは、「若(も)し法(ほう)を聞(き)くことあらん者(もの)は 一(ひと)りとして成仏(じょうぶつ)せずということなけん」(方便品=ほうべんぽん)と、断言されています。「一人残らず仏になれる」と保証されているのですから、だめな人間などいるわけがないのです。
唯仏与仏(71) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
平和な世界の実現は、私たち宗教者の切なる願いです。けれども、「諸法無我」の教えをかみしめればわかるように、もちつもたれつの関係のなかで、一人でも幸せになれない人がいるなら、全体も幸せではないのです。
唯仏与仏(70) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
佼成会の草創期のころ、よく「郵便ポストが赤いのも、みんな私の懴悔です」などと、冗談まじりにいったものです。自分の「我(が)」をとるために、起きてきた問題をどこまでも「自分のこと」として受けとめて懴悔するのです。
唯仏与仏(69) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
大乗仏教では「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という考え方で、「煩悩」があるから「菩提」を求め、救いの世界、悟りの境界に達することができる、と教えています。
唯仏与仏(68) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
在家の生活では、さまざまな出会いのなかで愛着心や欲望にとらわれることが多々あります。自分の才覚だけで仏道を歩もうとしても、間違った方向に進まないともかぎりません。自分中心の狭い見方では、まわりが見えなくなって、とんでもない横道に入りこんでしまうこともあるものです。
唯仏与仏(67) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
私たちの心は、目の前のできごとによって常に一喜一憂します。出会う相手という「縁」によって、素直に「仏心」を出せることもあれば、地獄のような心になってしまうこともあります。
唯仏与仏(66) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
お釈迦さまが悟られた「法」の中心は、すべてのものごとが一瞬一瞬に変化していく(諸行無常=しょぎょうむじょう)ということと、この世に孤立して存在するものは何一つなく、互いにもちつもたれつの関係にある(諸法無我=しょほうむが)ということです。
唯仏与仏(65) 立正佼成会 庭野日敬開祖法話
私はよく、「信仰しないよりも、信仰しているほうが楽ですよ」といいます。「信仰」というと、何か、縛られるように思う人もいるかと思います。ところが、仏さまにささげる気持ちになってしまうと、束縛がまったくないのです。つまり、縛りがほどけているから「ほとけ」というくらいで、仏さまは自由自在な心を授けてくださるのです。