共生へ――現代に伝える神道のこころ(18) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部教授)

「平成の大合併」によって失われたもの

小生がかつて調査に訪れた地の中で特に印象的だったのは、静岡県浜松市南区にある「高塚町」の名称だ。JR東海道本線の高塚駅で下車すると、南側に見える木々に囲まれた標高十メートルほどの人工の小山に、高塚熊野神社という神社が鎮座する。同社の由緒は、自然災害と神社地名との関係性を考える上でも実に興味深い。神社が掲示している由緒によれば、後三条天皇の延久年間(約九百五十年前)に、和歌山県の熊野本宮大社の神職が諸国行脚の途中でこの地に足を留めて創祀(そうし)されたのだが、同社の神職が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、神職は村人と協力して神社の裏山に土を盛り上げて丘を築き上げた。その後時代は下り、安政の大地震が発生した際、大津波によって多数の死者が出たものの、同社の周辺の住民はこの丘に避難して難を逃れて無事であったという。

加えて由緒には、一説として大津波の犠牲者をこの地に葬り、たくさんの砂を浜から運んで高い墓を築いたとも伝えており、それゆえ、大きな墓(つか)であったので大墓(おおつか)、後に高塚と呼ぶようになり、同地の地名になったとある。後者は『遠江国風土記伝(とおとうみのくにふどきでん)』に記されていて、『角川日本地名大辞典』にも旧名は大墓であったとの記載がある。地名研究家の今尾恵介氏も信憑性(しんぴょうせい)の高い説として支持しており、安政以前の慶長年間には「高塚」の地名がすでに呼称されていた記録もあるため、慶長以前の明応地震に伴うものであったと考えられている。

こうした地名を揺るがす大事件としては、平成十一(一九九九)年から平成十七(二〇〇五)年三月までに全国で市町村合併が進んだことが挙げられる。いわゆる「平成の大合併」だ。昭和二十八(一九五三)年から同三十六(一九六一)年にかけて行われた「昭和の大合併」の折にも多くの地名が消滅したことで知られるが、平成十一年に三千二百三十二あった市町村が、同二十二(二〇一〇)年には千七百三十にまで減少したことで、市町村名をはじめ大字・小字地名の存続・保存に大きな影響を与えた。この大合併に伴って不思議な名称を冠した市町村名の事例が、物議を醸したことは言(げん)を俟(ま)たない。合併後はそのまま町名などを住所表示に残存させた例も見られるが、それまでの歴史的地名や伝統的地名を無視して冠されたものも少なくない。合併に伴って行政区域も再編され、町名や住所表示についても先に述べた「生田区」のように、改称されたものも多い。

合併により市町村名が消え、それに伴う歴史的地名が消えることによって起きる人々の反響という問題は、地理学や民俗学、国語学などをはじめ、今後の学術研究で明らかにされていくと思われる。神社に関しても、かつて明治末期から大正期にかけて神社整理という行政施策で約七万社の神社が姿を消したが、それに伴って社名はもちろんのこと、多くの大字・小字地名が消えた。約百年前の大正期のことであっても、神社の旧鎮座地や祭祀(さいし)が行われていたことにちなむ大字・小字地名の歴史的な経緯は、もはや文献史料や石碑などでしか知ることができないものも多い。

地名は番地のような符号ではなく、それぞれに固有性、表現性を持つ個性ある存在だ。歴史や伝統を踏まえた地名がいかに人々にとって大切な共有の財産であるか、そのことを後世に伝えるための努力を重ねていくことは、地名を研究する者のみならず、我が国の伝統や文化を守り伝えていく人々の使命の一つになると考えている。人々が「うちのお宮」と親しみを込めて呼称してきた神社が合祀(ごうし)によって消滅した際、その社(やしろ)を信仰していた人々のアイデンティティーは、簡単に合祀先の神社へと向かうものではない。このことは地名にしても同様である。
(写真は全て、筆者提供)

プロフィル

ふじもと・よりお 1974年、岡山県生まれ。國學院大學神道文化学部教授。同大學大学院文学研究科神道学専攻博士課程後期修了。博士(神道学)。97年に神社本庁に奉職。皇學館大学文学部非常勤講師などを経て、2011年に國學院大學神道文化学部専任講師となり、14年より准教授、22年4月より現職。主な著書に『神道と社会事業の近代史』(弘文堂)、『神社と神様がよ~くわかる本』(秀和システム)、『地域社会をつくる宗教』(編著、明石書店)、『よくわかる皇室制度』(神社新報社)、『鳥居大図鑑』(グラフィック社)、『明治維新と天皇・神社』(錦正社)など。

【あわせて読みたい――関連記事】
共生へ――現代に伝える神道のこころ