普通に過ごせる日々への感謝を 「釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)」式典で庭野会長が法話

法話に立った庭野会長は、普通に過ごす日々の尊さに気づき、感謝の心で今を生きることが大切と説いた

立正佼成会の「釈迦牟尼仏ご命日(布薩=ふさつ=の日)」式典が5月15日、大聖堂で行われた。式典の模様は、インターネットの動画共有サイトでライブ配信(会員限定)された。

式典では庭野光祥次代会長を導師に読経供養が行われ、小林宏衣銚子教会長が体験説法に立った。

小林教会長は、夫の水道事業がうまくいかずに借金が膨らみ、夫婦げんかも絶えず、自暴自棄になっていた当時を述懐。離婚も視野に入れていた中で法縁に触れ、教会長から先祖供養の大切さを学んだ。また、自ら夫にあいさつと給仕をするようアドバイスされ、半信半疑ながらも実践を繰り返したことで相手を責める気持ちが薄れ、夫に寄り添えるようになった体験を語った。

現在は銚子教会長として、病を患う会員の早期回復を願い、サンガ(教えの仲間)と共に千羽鶴の作製や祈願供養を行っていると紹介。コロナ禍が続く中でもサンガとの心のつながりを深め、布教伝道に邁進(まいしん)することを誓った。

この後、庭野日鑛会長が法話に立った。庭野会長は小林正観氏の著書から、生まれつき目の見えない人は自分の親や結婚相手、子供の顔を一目見たいと願うが、見える人はそれが普通で、当たり前に感じてしまうと説明。贈り物を表す「Present(プレゼント)」には「現在」という意味もあり、日々の生活に不平不満を抱くのではなく、何もない普通の生活こそ神仏からのプレゼントと受けとめ、普通に過ごせる日々を心から感謝できるようになることが大切と述べた。

さらに小林氏の著書を引用し、「ありがとう」「祈願」の語源に言及。「ありがとう」は「有り難し」からきていて「存在し得ないこと」を意味し、神仏が起こしたあり得ない出来事をたたえ、感謝の気持ちを表現するために生まれた言葉と詳述した。また、「祈願」は「祈り」と「願い」に分けられ、どちらの言葉にも神仏に対する感謝と賞賛の思いが込められており、この世に人間として生まれ、当たり前に日々を過ごせる奇跡に感謝することと明示。「ありがとう」「祈願」の本来の意味をしっかりと認識し、「日頃から『ありがとうございます』という言葉を言える人間になっていくことが神仏の願い」と述べた。