西日本豪雨で被災した北広島、広島、宇和島の3教会を庭野会長が訪問

庭野会長の各教会での法話(要旨)

自らの体験を人さまの救われに

皆さまの発表を伺い、本当に大変な思いをされたことがよく分かりました。

人生ではいろいろなことが起こります。ですから、悩み苦しみがどうしても多くなります。そうした人生を歩む上で、仏さまの教えに巡り合えたことほど、有り難いことはありません。

仏教では、真実の道理(真理)が分かる能力を全ての人が具(そな)えていると教えています。つまり、誰もが仏さまと同じように悟ることができるのです。さらに、佼成会の所依の経典である『法華経』には、誰もが本来は、自分のことばかりを心配するような自己中心ではなく、人が苦しんでいるのを見るとじっとしてはいられない、そういう心を持った菩薩であると説かれています。

一方、「善悪無限」が人間の世界です。人間はその心を基にして、原子爆弾をつくることも、テロを起こすといったこともできれば、全ての人が生きていける文明をつくり出すこともできます。「煩悩即菩提」とは、「煩悩」と「菩提」は一つであるという意味です。一人の人間の中に、凶悪にもなれば、善良にもなる――そうした心を無限に具えており、よい方向にいけば、菩薩の心となります。

とかく私たちは、貪りや怒り、愚痴といった「貪・瞋・痴」を持っていると、仏になれないと思いがちです。しかし、そうした「貪・瞋・痴」があるからこそ、「何とかしなければ」と探求心が湧き、教えを求めようとします。自分の幸せだけでなく、人への思いやりや慈悲の心を持ちたいという気持ちが起こります。

また、私たちは悩み苦しみがあるからこそ、悟ることができます。つらく、苦しい体験をした人は、自分と同じような境遇の人を見ると、「かわいそうだ」という気持ちになり、あの人にも乗り越える力を得てほしいとの菩提心が起こさしめられます。自分だけが救われればいいというのではなく、多くの人に幸せになってほしいとの慈悲の心が芽生え、悟りの道に向かうのです。

「煩悩即菩提」の意味合いを知ると、自分にも仏さまが説かれた真理を悟ることができると分かり、向上心や菩提心が湧いてきます。悩みが多ければ多いほど、それが解けた時は、人さまへの思いやりの心が旺盛になると思うのです。

一生の間には、悲しいこと、苦しいことがたくさんあります。しかし、仏さまの教えを頂くことで、人間として生まれるのは稀(まれ)なこと、とても有り難いことだと分かってきます。「人間には大きな心があり、お互いに励まし合いながら精進し、生かされているいのちを大事にしていきましょう」――それが、仏さまの心です。ご苦労された体験を基にして、同じような境遇の方に教えをお伝えされることが、人さまの幸せにつながります。自分も救われ、人さまも救われる、そうした道を共に歩ませて頂きたいと思います。

(文責在記者)