内藤麻里子の文芸観察(38)
夕木春央さんの『方舟(はこぶね)』(講談社)は、衝撃的な作品だ。極限状態で究極の選択を迫る本格ミステリーなのだが、なんと言おうか、定番の本格ものだと油断していたら、とんでもない目に遭った。
物語の語り手となる越野柊一は、大学時代の友人5人との集まりに従兄(いとこ)の篠田翔太郎を誘ってやって来た。面白い地下建築があるからと、一行は山奥に分け入っていくが道に迷い、ようやくたどり着いた地下建築に1泊することになった。そこは天然の洞窟に手を加え、地下1階から3階に区切られた方舟のような形をしていた。地下3階は水没している。そこに、きのこ狩りをしていて道に迷ったという矢崎親子の三人連れが加わって、夜が更けていく。
しかし、明け方に地震が起きて出入り口に通じる扉が岩でふさがれてしまう。さらに浸水も始まった。完全に水没するまで1週間弱。岩を動かす装置はあるが、それを使うと操作する人物が岩に阻まれて脱出できない。そんな矢先、友人の1人、西村裕哉が絞殺された。誰がなぜ殺したのか。それよりも何よりも、この状況の中でその犯人こそが岩を動かす操作をすべきではないか。脱出方法は一つ。しかし犯人特定の証拠が圧倒的に不足していた。
探偵役は翔太郎だ。定職に就くことなく親の遺産で暮らし、柊一ですら全容が分からない。けれど「今回の集まりに揉(も)めごとの気配を感じていたから」、翔太郎を同伴したと冒頭で明かされている。つかみどころのない人物ながら、柊一をワトソン役に犯人探しが始まる。「揉めごと」の事情を明かしつつ、最初の殺人を上回る奇妙な殺人が起き、それを突破口に翔太郎の推理は深まっていく。一方で、犯人が分かった場合、岩を動かす装置の操作をしてくれと説得するのか、懇願するのか、はたまた拷問して無理強いするのか。
方舟という周囲と隔絶した舞台、危機を目の前にした究極の選択、誰がなぜ殺したのか――。そして犯人が判明し、殺害理由にセンチメンタルな雰囲気も漂って大団円を迎えたその時、なんとオーソドックスな本格ミステリーをひっくり返してみせた。その驚きと、苦い後味に呆然(ぼうぜん)とした。
いったんこの本を手にしたら、途中で最後の数ページを開いてはいけない。
こうした衝撃のミステリーがお好みの方には、歌野晶午さんの『葉桜の季節に君を想うということ』もお薦めしたい。
プロフィル
ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。
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