TKWO――音楽とともにある人生♪ コントラバス・前田芳彰さん Vol.2
自分の音と向き合うためにウィーンへ
――その後は、すぐに演奏家になったのですか?
そんな簡単にはいきません。アルバイトをしながらレッスンを受ける生活から、さらに音楽理論などを学ぶため、レッスンに一区切りをつけ、19歳から2年間は桐朋学園大学音楽学部のディプロマ(実技中心の専門教育)コースに通いました。在学中、その学校の先輩のつながりで、演奏の仕事をもらえるようにもなったので、1年はフリーの奏者として活動しました。ただ、演奏だけで暮らすことはできませんから、アルバイトは続けました。
音楽と生活を両立させるためには、楽団に就職することが最善の道でした。僕は間近にあった東京フィルハーモニー交響楽団(東フィル)のオーディションを受験し、幸いにも合格することができました。23歳の時です。
――プロの音楽家になれたのですね。最初の印象は?
まずは、プロの奏でる音の厚み、響きに感動しました。加えて、当時はバブル絶頂の頃で景気が良かったので、各国の名歌手が相次いで来日し、そのバックで演奏する機会に恵まれました。
レコードやCDで聴いた有名なオペラ歌手が、自分の目の前で歌っているんですよ。感動しましたね。声量、声の質、歌い回し、そうした全てがバランス良く響き、これ以上ないと言えるほどの美しい歌声を奏でるのです。僕が、〈次に来るフレーズがこう歌い上げられたら最高だな〉と想像しながら楽器を奏でていると、直後にその通りの歌声が聴こえてくるんです。一流とは、皆の求めに応じ、きっちりと表現すること、何度繰り返してもその精度を高く保つことができることを言うのだと痛感しました。
一方、プロの演奏に触れるほど、自分の理想が高くなり、入団から5年ほど経った頃には、奏者としての自分の実力と理想とのギャップに悩むことが多くなりました。出したい音を思い描き、限られた時間の中で集中して練習を重ねても、理想には届かないのです。その煩悶(はんもん)が大きなストレスになり、考えると夜も眠れず、冷蔵庫のウオッカに頼ってしまう。そんなことも多かったです。
自分自身の音を見つめ直す時間が欲しいと思っていたちょうどその頃、東フィルのヨーロッパツアーがありました。ヨーロッパ訪問中、オーストリアのウィーンでのオフの日に、国立歌劇場でオペラを見ました。立ち席で15シリングですから、180円(当時)程度です。ベートーベンの「フィデリオ」が上演されていて、冒頭で奏でられるコントラバスの音色を聴いた時、〈これだ!〉と感じました。この演奏者に教わりたいと思った僕は、帰国してすぐに連絡を取りました。すると、レッスンの依頼を快諾してくれたので、楽器を売って渡航費の足しにし、楽団を休職してウィーン留学を決めました。
ウィーンでは、日々のレッスンで演奏技術を鍛えられました。しかし、それ以上に、自分のペースで音と向き合う生活が送れたことが幸運でした。音楽の都といわれるウィーンですから、毎日のように世界の一流演奏家の音を聴くことができます。朝起きて、レッスンを受け、夜はオペラを観(み)る。散歩をしたり、絵画を見たり、コンサートを見たりと、リラックスした時間も多かったですね。日本で仕事に追われている時は、常に肩に力が入っているような感じで、精神的な余裕がありませんでした。プレッシャーから解放されたことで、さまざまな芸術作品から刺激を受けて、自らの表現の幅を広げていこうという意欲が増していきました。ウィーンでの経験の全てが、演奏家としての“血肉”になり、自信となって蓄えられた気がします。そう言えるほど充実した毎日を過ごせました。
1年間の留学を経て東フィルに戻ったのですが、公演は多い時で年間に約180回を数え、僕にとっては、まさに「こなさなければならない」という状態でした。このペースについていく器用さが僕にはなく、次第に自分には困難だと感じるようになり、悩んだ末に退団しました。その後は7年ほど、フリーの演奏者としてマイペースで活動しました。
プロフィル
まえだ・よしあき 1963年、大阪・吹田市に生まれ、3歳の時から沖縄・金武町(きんちょう)に。桐朋学園大学音楽科ディプロマコースを経て、85年に東京フィルハーモニー交響楽団に入団。在団中、オーストリア・ウィーンに留学した。95年に同団を退団。コントラバスのソリスト、室内楽奏者、オーケストラでの客演といったフリーでの活動を経て、2001年に東京佼成ウインドオーケストラに入団した。これまでに、檜山薫、小野充、アロイス・ポッシュの各氏に師事。