立正佼成会 庭野日鑛会長 1月の法話から

1月に行われた大聖堂での式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋してまとめました。(文責在編集部)

即是道場

「即是道場(そくぜどうじょう)」について、新年の「佼成新聞」等に述べております。

法華経の信仰に生きる人は、生活の場がそもそも道場です。仏さまも、私たちがいる人間の世界、すなわち娑婆(しゃば)世界と言われるここで、お悟りを開かれ、ご法を説かれ、そしてお亡くなりになったと「道場観」に示されています。私たちが生きる娑婆世界は、生まれてから死ぬまで、ずっと道場である、ずっと修行の時間であるのです。
(1月7日)

常に尋ねる

今年、書き初めを『尋常』と致しました。この言葉には、とても深い意味があります。

「尋常」とは「常に尋ねる」、大事なことは何かと常に尋ねていくということです。つまり、人間として、誰にも変わらない大切な徳、良い習慣、そして基礎的な知識、技術――そういう一番大事なものを学んでいくということです。

「尋常」というと、すぐに、かつての尋常小学校を思い浮かべますから、普通には、初等とか、低級と思いがちです。しかしそうではなく、人間として一番基本的で大切なものを身につけるのが、尋常小学校の時代であります。

建物に譬(たと)えますと、尋常小学校というしっかりとした基礎があって初めて、その上に中学校、高等学校という高い建物ができていくわけです。小学校の頃の一番基礎的な土台がしっかりしていないと、立派な建物はできません。人間としての徳を具(そな)える、あるいは良い習慣を身につける、また社会でこれだけは絶対に必要だという基礎的なことを身につける。このことは、本当に大切です。

それを誤解して、高等教育の方が素晴らしい、大学の方が素晴らしいと思いがちです。高等学校、大学と上に行くに従って、知識、技術は学ぶわけですけれども、人間の徳、良い習慣は、すでに小学校の時代にでき上がるようです。

そういう意味で、この「尋常」という、大事なことは何かを常に尋ねていく姿勢は、お互いさまに大切です。
(1月7日)

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