ミンダナオに吹く風(13) マラウィ市近郊の避難民キャンプを目指して 写真・文 松居友(ミンダナオ子ども図書館代表)

マラウィ市近郊の避難民キャンプを目指して

フィリピン・ミンダナオのマラウィ市は、空爆も含む徹底的な戦闘で街全体が破壊しつくされており、見るも無残な様相だ。去年の10月に戦争終結宣言が出されたこともあり、家が破壊から免れた、近郊の市町村からの避難民たちに限って、10カ月ぶりに帰郷が許されはじめていた。避難民の表情にも、安堵(あんど)感が広がっていきつつあるのが感じられた。

かわいそうなのは、徹底的に家が壊された市の中心部の住民たちだ。彼らの帰郷の目途(めど)はまったくたっていないどころか、たとえ今後帰郷できたとしても、爆撃で家屋は全壊し、一時的に仮設住宅に住めたとしても、仕事の目途は全くつかない状況だった。

こうした人々は、イリガン市ではなく、マラウィ市周辺の避難民キャンプに収容されていた。今回私たちは、車でマラウィ市近郊に設置された避難民キャンプに向かった。市に近づくにしたがって、緑の迷彩色にぬられた軍用トラックが、鉄砲を手にした軍人を乗せて走りまわり、時には戦車が横をすり抜けていく。やがて、避難民を収容したキャンプが見えてきた。

イリガン市周辺の避難民キャンプは、学校などの二階建ての公共施設が避難所だった例が多く、しっかりした屋根と天井の下で壁もあり雨も風もよけられる。中に入ってみると、シートで部屋が区分けされてはいるものの、一家族が6畳から8畳ぐらいのスペースの場所で寝られる様子だった。

マラウィ市の避難民キャンプで、リラックスした表情を浮かべる少女たち

それに比べると、マラウィ市近郊の避難キャンプは、壁のない高い屋根の体育場があった以外は、福祉局が設定した、屋外のテントのなかでの生活だった。それでも、私たちが15年間、繰り返し戦闘避難民救済に駆け回ってきた、湿原地帯の避難民達の場合は、道端や空き地に、棒きれを建て、その上にヤシの葉を葺(ふ)いただけの家畜の寝場所のようなところだったし、そんな状況下で、時には一年以上も生活していたのだから、それに比べると、こちらは政府や海外からの支援も行き届いており、はるかに良い環境に見えた。

最初に私たちが訪ねた避難所は、壁もない高い屋根だけの体育場だった。コンクリートの床にゴザを敷き、針金を張り巡らせてビニールシートをかけて作った、3畳ほどのスペースに、家族が7、8人で住んでいた。その家族数たるや半端ではない。

車を止めて体育館に近づいていくと、入り口では、子どもたちが、ゴミ捨て場でゴミあさりをしている。私たちを見ると、手を振って駆け寄って来て、なかには飛びついてくる小さな子もいて、思わず抱き上げた。コンクリートの床に輪ゴムを広げて、それを手でパンパンとたたいて遊んでいる子たちもいる。困難にもめげずに、何と明るい子どもたちだろう。

プロフィル

まつい・とも 1953年、東京都生まれ。児童文学者。2003年、フィリピン・ミンダナオ島で、NGO「ミンダナオ子ども図書館」(MCL)を設立。読み語りの活動を中心に、小学校や保育所建設、医療支援、奨学金の付与などを行っている。第3回自由都市・堺 平和貢献賞「奨励賞」を受賞。ミンダナオに関する著書に『手をつなごうよ』(彩流社)、『サンパギータのくびかざり』(今人舎)などがある。近著は『サダムとせかいいち大きなワニ』(今人舎)。