栄福の時代を目指して(6) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

人命と政治的理念のモラル・ジレンマ

ここには真のモラル・ジレンマがある。ナチス・ドイツの侵略に対しては、イギリス首相(ネヴィル=チェンバレン)の宥和政策(1938年)が失敗した後では、アメリカも参戦し、人命を賭して戦った連合国が勝利した。――人命より自由という政治的理念を優先したのが、正義となったのである。よって、問題は、2025年のプーチン・ロシアを、1938年当時のナチス・ドイツに類比すべきかどうか、というところにある。後者は世界侵略を企てたが、前者はロシア文明の防衛を企てているように見える。

ここに実質的な差を見るべきかどうか。そしてロシアの侵略に対しては、どちらを取るべきか。人命も、政治的理念や領土も重要な以上、ここには明快な正解はない。

しかし、そもそもの大局的問題はアメリカが覇権国としての力を失ったことにある。だからこそ、バイデン政権が行った支援を継続できなくなり、トランプ政権が「ディール」によって利益獲得を狙っている。となれば、すでに米欧が一体だった西欧は、アメリカの変質によりすでに当初の目標の達成に失敗しているのである。

となると、目標を再設定しなければならないと思われる。それは、トランプ氏の言にあるように第3次世界大戦を回避すること、そして妥協は不可避ながらその損失を最低限にして平和の回復・維持を可能にすることだろう。

私は、国際法維持のために緒戦ではウクライナ支援を支持したが、戦争が長期化してからは、ウクライナ侵攻にはNATOの東方拡大路線にも原因があるので、ロシアの体制変革を目指すべきではなく、西欧とは一線を画し、NATO加盟断念やロシアへの一部妥協によって、国連に協力して停戦に努めるべきだと主張した(前連載の第63回)。ウクライナ優勢のうちに和平を実現する機を逃してしまったことが、戦況の悪化とトランプ政権の登場による今の苦境を招いている。よって、まして現時点では、これ以上の人命の犠牲を避けるために、可能な限りウクライナの譲歩が少なく済むように努めつつ、これらの方策によって停戦を追求すべきだろう。

この点で和平への国際的努力を支持しつつ、他面で、理念においてはトランプ政権に同調せず、ウクライナや欧州とも、自由民主主義の理念や国際法のために連帯を表明することが大事だ。平和と、自由民主主義・国際法という理念の緊張関係において、バランスや調和を図りつつ、アメリカとウクライナ・欧州との協調を支援し促進することこそが、現在の局面において日本の文明的理念たる「和」を生かす道だろう。

自民党政権の支持・不支持とは関わりなく、この点では、石破政権の外交姿勢は必ずしも誤っていない。日米首脳会談(2月7日)では、石破茂首相が対米投資や液化天然ガス輸入の増加を示したことによって、トランプ大統領は対日貿易赤字解消に役立つとして、新しい関税や防衛費の要求をしなかったという点で成功だった。大統領の面前では「法の支配」という理念を持ち出すのは控えて、トランプ政権の思惑に応えて国益を図る実利主義は、現時点では賢明だろう。野党は、自由民主主義や国際法の遵守という理念を主張しつつ、現実策として政権の外交姿勢に協力するのが望ましいと思われる。

平和国家・日本の担うべき世界史的役割

もっともその後、トランプ政権は、全ての輸入車に25%の関税を課すと発表し、日本からの輸出車も例外ではない(3月26日)。

また、経費削減のために在日米軍強化の中止を(NATO軍最高司令官撤退とともに)検討しているという報道がなされた(3月19日)。これは、日米関係の強化という既存の方針とは背反しており、アメリカが世界の秩序維持や守護者という役割から後退する動きの一環である。

従来の日米関係は、日米安保条約に基づいて、アメリカを親分、日本が子分として行動する上下関係によるものだった。学問的には、「日米恩顧主義(クライエンテリズム)」と私は呼んでいる。この前提は、アメリカが世界の自由民主主義や平和の守り手であるということだった。しかし、少なくとも、アメリカの理念と性格が大きく変質してしまった今現在においては、日本文明の理念に基づいてこの関係の再考が求められている。よって、上記のような方向に対して、徒(いたずら)に脅(おび)えて日米同盟の維持・強化を望むよりも、独自の平和主義的文明として、日本自身の自衛と自立の方途を熟考する必要がある。友愛の理念に基づいて、アメリカとの協調を図りつつ、日中韓外相会談(3月22日)で「未来志向の協力推進」が確認されたように、近隣諸国との友好的関係の構築を目指していくべきだろう。

そのためには、従来のアメリカ一辺倒の外交をやめ、かといって欧州の主張と一体化するのでもなく、これらとともに東南アジア諸国連合(ASEAN)やグローバル・サウスなどを含めた様々な多国間協力の枠組みに寄与し発展させることが大切である。そして、可能な限り、アメリカ、ロシア、中国という3「帝国」と、欧州という共和国連合と協調しつつそれらを媒介して、友愛外交によって世界平和の実現に向けて働きかける他に道はない。『スター・ウォーズ』を想起させる驚愕の激変において、アメリカ国内のレジスタンスや共和国連合に連帯のエールを送りつつも、平和国家・日本がこの世界史的役割を担うことを願いたい。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究院長、千葉大学公共研究センター長で、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘(しょうへい)教授兼任。専門は公共哲学、政治哲学、比較政治。2010年に放送されたNHK「ハーバード白熱教室」の解説を務め、日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。日本ポジティブサイコロジー医学会理事でもあり、ポジティブ心理学に関しては、公共哲学と心理学との学際的な研究が国際的な反響を呼んでいる。著書に『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『アリストテレスの人生相談』(講談社)、『神社と政治』(角川新書)、『武器となる思想』(光文社新書)、『ポジティブ心理学――科学的メンタル・ウェルネス入門』(講談社)』など。