利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(76) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

これからの「道徳」の話をしよう

先月(6月18日)に駐日ジョージア大使(ティムラズ・レジャバ氏)が、自分が足を組んで電車の優先席に座っている様子をツイッターに投稿したところ、大きな反響があり、その是非についての議論が盛り上がった。日刊紙でも大使にインタビューがなされて、私がコメントを求められた(朝日新聞7月14日付夕刊)。

もし問題になっているのが「専用席」だったら、席に座るべき人が決められているから、座るべきかどうかという問いに対する答えは明快だ。それに対して「優先席」の場合には、明確なルールはなく、鉄道会社の側から「高齢者、障害者、傷病者、妊婦、乳幼児連れの人などを優先するようにお願いします」という要請があるだけだから、この問いには学問的に正しい答えはない。その意味で、正解はない。

この点は、米ハーバード大学教授のマイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」のテーマに似ている。そこで、この道徳問題について考えてみよう。放映当時にベストセラーになった『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(早川書房)になぞらえて、「これからの『美徳』の話をしよう――いまを生き延びるための道徳」ということになる。

公共空間の公共的道徳に関する公共的議論

写真を撮った日曜日、優先席以外は少し混み、優先席が空いていたので、大使は家族と座り、「席が空いているのなら、座るのを我慢する理由は一つもない。必要としている人が来たら、譲ればいい」と考えていたので、投稿当日から批判的な反応があったのは予想外だったという。日本社会において協調を重んじる統一感があることを大使は強みと評価しつつも、この種の批判的反応には、日本社会の「同調圧力の押し付け」を感じたという。

この問題は、前回(第75回)までに述べてきた「公共哲学」の観点からみても、とても興味深い。まず、電車は、多様な人々が乗っていてお互いに見ることができるという点で「公共空間」だ。そこにおける道徳は「公共道徳」である。さらに、ツイッターや新聞での議論は「公共的議論」である。つまり、「公共空間」における「公共的道徳」が「公共的議論」になっているわけだ。公共哲学からみて、これほど好個な道徳的主題は少ないだろう。

文明的品性の道徳

このような状況は誰しも経験したことがあるだろう。読者の皆さんだったら、どうするだろうか?

国土交通省の調査(昨年11月)では、優先席にほとんど座らない人(42.3%)や座ったことがない人(17.0%)が合わせて約6割、よく座る人(7.4%)や時々座る人(33.3%)が約4割だという。さらに、「座ったことがない」を除く人に、高齢者やけが人などがいたら優先席を譲るか尋ねたところ、「よく譲る」が57.7%、「ときどき譲る」が23.9%で、合わせて8割くらいだったという。

仮に「座ったことがない」人や、それ以外で「よく/ときどき譲る」人が公共的道徳を守っているとみなせば、約83.4%の人が相当することになる(83×0.8+17.0)。

リップマンの言う「公共哲学」とは「文明的品性(シヴィリティ)」の哲学であり、シヴィリティは礼節も意味するから、「文明的礼節」ないし「公共的礼節」についての考え方である。優先席がpriority seatの他、courtesy seatとも英語で表記されているように、これは「礼儀(礼節)の席」でもある。これが、公共哲学と関連の深い問題であり、公共的道徳の問題であることが分かるだろう。

上記の調査からみれば、今の日本では優先席の公共的道徳を8割強の人がだいたい尊重していることになる。それでは、今の日本では大方の人が「文明的品性の道徳」を備えていると言うことができるだろうか。

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