利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(69) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

人生の物語の総括

前回にも触れたように、仏教は一般に、この期間には死者は中陰という状態で旅をし、七日ごとに生前の行いについて審判を受けるとされている。初七日には最初の審判官(秦広王)と会って三途(さんず)の川に辿(たど)り着き、五七日には有名な閻魔(えんま)大王の裁きがある。この旅が終わるのが四十九日で、泰山王の審判で極楽浄土や地獄など、行き先が決まるというのである。だからこそ、この期間は特に遺族の供養が大事で、四十九日には僧侶に法要をしてもらう。これらが個人の罪を軽減するという助けになると信じられているからだ。こうして忌日が終わると、通常の暮らし方をして良いことになる。

これらの世界観にも、必ずしも昔の迷信と片付けられない真実が秘められている気がした。そもそも、葬儀の際に、普段はあまり会う機会がない親族や知人と会い、それを通じて故人をめぐる人生の物語が垣間見られたりすることもある。戒名をはじめ公式の場面では個人の明るい面に照明が当たることが多いが、裏では暗い面が浮上することもある。ほとんどの人には明暗両面があるから、これは無理のないことだが、この双方が人の人生を構成する以上、その総体によって人の一生が総括される。

よって、現実の世界で起こっているこのような法要は、宗教的世界における人生の審判に対応するだろう。もちろん生きている人々には宗教的審判の結果は分からないが、故人を偲ぶ期間において、このような過程が進み、関係者は一人ひとりの心の中でその人なりに印象を整理し、さらには故人との関わりにおける自分の生き方も改めて見つめ直すことができる。このような人生の総括は大事だ。そのためには一定の期間が必要であり、日本仏教ではそれが四十九日と定められているわけだ。

再生の時

法要が終わると、僧侶が忌日の期間の終了を宣言し、通常の世界が再開する。以前と同じ世界ではあるが、華やかさや楽しさのある世界に遺族が回帰する。これは、死からの再生とも感じられる。人の死を生かして、そこから得られる洞察や教訓も生かして、より良い人生を歩むことができれば幸いだろう。

ポジティブ心理学では、ポジティブな心理がもたらす幸福の可能性を実証しているが、逆にネガティブな心理的体験が、それを乗り越えた後で精神的成長やポジティブな可能性につながることがあることも明らかにした。家族の死は、誰しも経験せざるを得ない悲しみの時だ。しかし、その悲しみの中から貴重な洞察を得て、その後の自らの人生に生かすことは可能だ。哲学的にはこれは、死に正面から向き合う生き方でもあり、これによって真実の人生を歩むことが可能になるのである。

政治的人生の総括と再生の可能性

さて、冒頭の政治的主題に戻って考えれば、国葬の場ではほとんど故人の肯定的評価のみが語られた。しかし、その裏では、国葬をめぐる議論をはじめ、故人を評価しない人々からの批判的意見や世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係などが噴出した。そして、後継政権においては、政治的汚濁や政治路線の芳(かんば)しからない帰結が続出している。

このような中で、主権者たる人々に問われているのは、故人の政治的人生をどのように総括したかということだろう。宗教的審判の結果は私たちには知るべくもないが、長期政権だっただけに政治的人生の総括は私たちがしなければならない。そして、国葬が終わって通常の政治に回帰した今、国葬に至る期間において明らかになった事実を踏まえて、私たちはどのように故人の政治を考えるべきだろうか。その生かし方によって、政治が再生する可能性が現れるだろう。人々が貴重な洞察を得ることによって、日本政治が甦(よみがえ)ることを期待したいものだ。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院人文社会学研究科教授で、専門は政治哲学、公共哲学、比較政治。米・ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と親交があり、NHK「ハーバード白熱教室」の解説を務めた。日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。著書に『神社と政治』(角川新書)、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)、『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう』(文春新書)など。

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