利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(69) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)
画・国井 節
政治的混乱
安倍晋三元首相の国葬が終わってからも、政治の混乱が続いている。政権の支持は続落し、相次いで三人の閣僚が辞任した。一人目の経済再生担当大臣はカルト的宗教との密接な関係が露呈した。二人目の法務大臣は、死刑という人の生死の与奪の権を握っているにもかかわらず、生命の重みに対する識見のなさが指弾された。三人目の総務大臣は、政治資金を所轄する責任者であるにもかかわらず、自らの政治資金問題が次々と露呈した。これらに見られるのは、政治的汚濁そのものだ。
他方で物価上昇がますます進行し、人々の生活に重い負担がかかる増税案が次々と浮上している。これは、アベノミクスの結果であるとともに、安倍路線の継承者たちが、その路線に従って、軍事費を増大させようとしているためだ。
いずれにおいても、故人の政治の帰結が問われている。このことを、通常の人間の死から考えてみよう。
哲学や宗教における死の意味
哲学においては、マルティン・ハイデッガーという20世紀を代表するドイツの哲学者が「多くの人間は自分の死を直視せずに生きているが、それは頽落(たいらく)した姿であり、いつかは死ぬという人の運命を直視することによってこそ、本来の生き方ができる」と論じた。これは卓見だ。仏教でも生老病死という四苦を正面から見つめて、そこから解脱する道を説いている。
私的なことながら、最近、親や親族の死が相次いだこともあって、私は死に関する問題を改めて省察している。葬儀に関する白熱教室で議論されたように、今日(こんにち)ではそもそも葬儀が軽んじられており、非宗教的形式の葬儀も増えている。これは由々しきことだ。なぜならば、死という重大問題を宗教的ないし超越的な観点から考える機会を減殺しているからだ。
前回(第68回)に、忌日に入ると、黒に近い色の衣装を纏(まと)いたくなり、積極的な外的活動をする気が減少するという体験を述べた。これによって、黒の喪服などの慣習や儀礼が存在するのは、このような人間心理が古来に存在したからだ、と感じた。この期間は一般的に華やかなことをするべきではなく、慶事や神社への参拝を避けるべきだ、とされている。故人を偲(しの)ぶべき時であると同時に、死者との関係によって身に穢(けが)れがあるからだ、と説明されている。このような感覚も確かに実感した。そのために、心理的にも、また知人たちに悪影響を与えたくないためにも、人とあまり交わりたくなくなったのだ。死者の存在のために、通常時とは異なって目に見えない世界と近接しており、その影響を色濃く感じた。逆に言えば、通常の世界とは心理的な距離感が生まれたのである。