忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世(4) 写真・文 猪俣典弘

立正佼成会の青年による長年の「慰霊と懺悔」の取り組みが、憎悪を乗り越えて両国の人々の友情を育んでいった(1975年、第3回青年の船。フレンドシップタワーでの読経供養)

「一食を捧げる運動」に育てられた奨学生が支援の担い手に

戦争の憎しみを乗り越え、懺悔と慰霊が築いてきた対話と交流

立正佼成会の会員がフィリピンを訪問したのは、1973年のことでした。「第1回青年の船」が就航し、約500人の青年部員が渡航先の一つであるフィリピンの地に降り立ったのです。当時はまだ、フィリピン各地に戦争の傷痕が生々しく残っていました。日本軍によって多くの同胞を殺され、社会を破壊され、尊厳を踏みにじられたフィリピンの人々の怒りと哀しみに直面した青年たちは言葉を失ったそうです。そこから、立正佼成会の青年による「慰霊と懺悔(さんげ)」の取り組みが始まりました。

それから2年後、日本軍が強要して多くの捕虜の命を奪った「死の行進」で知られるバターン州に、日比友好のシンボルとしてフレンドシップタワーが建立されました。これ以降、「死の行進」の記憶を「平和への行進」として未来につなげようと、バターンの人々との交流が本格化していきます。

激戦地であったコレヒドール島での慰霊供養(1985年、第10回フィリピン平和使節団)

これがきっかけとなり、78年には現地にバターン・キリスト教青年会(BCYCC)が発足しました。以来、立正佼成会はBCYCCをパートナー団体として人材育成のための奨学金プログラムを開始。支援を受けた奨学生は400人を超えます。このほかにも、パレードの開催や「バターン図書博物館」(BLM)の建設、ホームステイプログラムなどを共同で実施し、国家・民族・言語・宗教・習慣などのあらゆる違いを超えて友好関係を築いてきました。全ての戦争犠牲者の慰霊と共に、日本人が犯した罪への懺悔の心をもってバターンを訪れる青年たちの、誠実でひたむきな行動は、怒りと憎しみに固まっていたフィリピン人の心を徐々に解かしていきました。

私が立正佼成会青年本部(当時)の派遣でBCYCCのボランティアをしていた95年当時、バターンの戦争体験者の方が「かつて侵略者であった日本人が、“懺悔と慰霊”に来てくれたことに驚いた」と話してくださったことを今でも覚えています。宗教の違いを超えて、仏教徒とキリスト教徒が真摯(しんし)に懺悔し、慰霊の行動を示し続けたことで、信仰者同士の対話が生まれ、お互いの協力関係が築かれてきました。その長い歩みに思いを馳(は)せる貴重な出会いでした。

BCYCC奨学生のディンさん フィリピン残留日本人二世を支える中核スタッフに

フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)マニラの事業担当者であるディン・サクダランさん(48歳)は、10人きょうだいの末っ子です。3歳の時にお父さんを病気で亡くし、お母さんが市場で懸命に働いて子どもたちを育ててくれました。しかし家計は常に苦しく、末っ子のディンさんは大学進学を諦めざるを得ない状況でした。しかし、進学への思いは断ちがたく、給付型で狭き門の「BCYCC奨学金プログラム」に応募しました。

一食平和基金の支援を通して大学卒業後、「恩返しをしたい」とPNLSCで働くディンさん

「面接の時にBCYCCの理事たちから、助成して頂く学費やテキストは、日本の仏教徒の方たちが一食を我慢し、その分を献金として、平和への願いとともに私たちのために分かち合ってくださるものだと聞かされ、強く感銘を受けました」と、ディンさんは後に話してくれました。

奨学生に選ばれたディンさんは、大学に通う傍ら、立正佼成会の学生や青年たちとの交流に積極的に参加しました。こうした活動を通じて、「将来は人の役に立つことがしたい」「できることならば日本に恩返しをしたい」と思うようになったそうです。その言葉通り、ディンさんはマニラの日系人会連合会財団に就職後、25年にわたって数百人のフィリピン残留日本人二世の身元確認と日本国籍回復のために奔走し続けています。

ディンさんの仕事は、歴史の闇に置き去りにされてきた彼らの心に寄り添い、丁寧に話を聞き取り、バラバラになった証拠をかき集めるものです。地道で、困難な道のりの連続ですが、これまで約780人の残留日本人二世の父親の身元が判明し、このうち約300人が就籍できました。この裏には、ディンさんが担うような地道で粘り強い調査の積み重ねがあるのです。

おぼろげな記憶から散り散りになった証拠をかき集める

100年近く前にフィリピンへ渡航した日本人の痕跡を探し出すのは、気の遠くなるような作業です。戦死したり、ジャングルで離れ離れになったり、戦後に日本へ強制送還されたり――高齢になった残留日本人二世の記憶に残された父親の面影の断片をつなぎ合わせ、証拠となるものを見つけていきます。

各地の教会の記録簿に記載された洗礼記録、マニラの国立公文書館に保管されている婚姻届や出生届などを探すのですが、フィリピンでは日米の激しい地上戦が繰り広げられたため多くの教会や役場が破壊され、焼失した書類も数限りなくあります。幸運なことに記録が残っていたとしても、80年以上前の書類ですから、高い湿度と老朽化でぼろぼろになり、中にはシロアリに食べられてしまったものもあります。

日本側の私たちも、外務省の外交資料館に残されている戦前の海外渡航者名簿、終戦時に連合軍の捕虜になりアメリカの国立公文書館に保管された捕虜名簿、父親が軍人や軍属であった場合には厚労省の旧陸軍関係の死亡者名簿などを探します。ありとあらゆる手がかりをたどり、彼らの父親を特定していくのです。

この地道な活動の中核を担う一人が、立正佼成会の会員による「一食(いちじき)を捧げる運動」によって育てられた青年であるという事実に、私は人智を超えた神仏の深いはからいを感じずにはいられません。「一食を捧げる運動」は人をつくる運動であり、立正佼成会の青年たちによる同悲同苦の真摯な祈りと実践によって始まり、今日まで続けられています。

社会の一隅を照らすべく捧げられた浄財が、日本とフィリピンの間で離れ離れになった家族の心に明かりを灯(とも)し、戦争の闇に置き去りにされてきた残留日本人二世の姿を照らし出す――「一食を捧げる運動」に込められた尊い願いが、フィリピンの地で着実に実を結んでいることに、私は深い感動と感謝を覚えずにはいられないのです。

プロフィル

いのまた・のりひろ 1969年、神奈川県横浜市生まれ。マニラのアジア社会研究所で社会学を学ぶ。現地NGOとともに農村・漁村で、上総堀りという日本の工法を用いた井戸掘りを行う。卒業後、NGOに勤務。旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣される。認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)代表理事。

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