利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(66) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

全体主義的宗教と超国家主義

全体主義とは、もともとはファシズムやスターリン支配下のソ連のように、支配者に服従を強いられて一切の思想的自由が抑圧されて存在しない政治体制を指す。破壊的カルトは、組織形態においてはこれと似ており、破壊的カルトとは一種の全体主義であり、「霊的(スピリチュアル)ないし宗教的な全体主義」がカルトの特性なのである。

ここにこそ、カルト的宗教を政治から排除しなければならない実質的な原因がある。カルト的宗教の心理的影響を受けると、自由な思考ができなくなるから、自由な民主的思考が困難になり、逆に支配者の命令に従うばかりになりやすい。これは、ファシズムや独裁の政治体制に親和性がある。

まさにこのような事態が戦前の日本に起こり、軍国主義化と開戦を引き起こしたのだった。当時は、極端な国家神道が刷り込まれて多くの人々の心を支配し(マインド・コントロール)、自由な思考力を喪失させて、日本独特のファシズムを引き起こした。ちょうど健全な宗教とカルト宗教が異なるように、当時のナショナリズムは、健全なナショナリズム(国民主義)とは異なるから、超国家主義(丸山眞男)と言われる。原爆式典や終戦記念日がある8月は、この歴史を改めて顧みて失敗を繰り返さないように誓うべき時である。

安倍政治は、第1次内閣時に「戦後レジームからの脱却」を掲げて、戦前の政治体制への回帰を目論(もくろ)んでいると批判されてきた。この政治的志向とカルト的宗教とが全体主義的体質という点で類似しているならば、多くの人々は慄然(りつぜん)とするのではなかろうか。安倍政治が便宜的にカルト的宗教を利用したというよりも、両者の間に思想的・組織的親和性があるがゆえに、半ば必然的に双方が助け合って、共通の政治的理想の実現を目指したということになるからである。

政治的浄化による日本政治の新生

このように考えれば、なすべきことは明らかだ。禍々(まがまが)しい宗教に日本政界が汚染されていたのだから、何よりも政治的な浄化が必要だ。もちろん、与野党を問わず、政界はカルト的宗教と一切の癒着と関係を断ち切らなければならない。政教癒着の影響が疑われる、旧統一教会やこども家庭庁の名称変更は見直されなければならないし、強引な献金や集金による被害を精査して解散命令も検討されるべきだろう。また海外に倣って、信教の自由を尊重しつつ、返金や脱会を容易にするカルト宗教規制立法も真剣な議論に値する。

しかし旧統一教会だけを退ければよいというわけではない。安倍政治は今なお巨大な影響を与えているから、日本政治はカルト的宗教と通底する全体主義・権威主義的志向を清算し、その名残を剔抉(てっけつ)しなければならない。徳や精神性を重んじる日本政治へと抜本的に新生するためには、仮面をかぶって健全な宗教を装うカルトによる宗教的・政治的汚濁を払い清めなければならないのである。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院人文社会学研究科教授で、専門は政治哲学、公共哲学、比較政治。米・ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と親交があり、NHK「ハーバード白熱教室」の解説を務めた。日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。著書に『神社と政治』(角川新書)、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)、『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう』(文春新書)など。

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