現代を見つめて(6) 残された家族の思い 文・石井光太(作家)
残された家族の思い
現在、日本には命を脅かす危険のある難病(LTC)の子供は、約二万人いるとされている。
小児の難病において、闘病する子供だけが苦境に追い込まれるわけではない。家族も同じくらい厳しい現実に向き合うことになる。母親は何年にもわたって子供の苦しみを間近にして、寝る間も惜しんで看病に明け暮れなければならない。実は、その過程で親が心を病んだり、夫婦関係が破綻して家庭が壊れたりするケースが多々あるのだ。シングルマザーの場合は、生活自体が立ち行かなくなることもある。子供の難病は、家族の崩壊の可能性を秘めているのだ。
先日ある講演会で、こうした難病の子供を持つ家族がかかえる問題について話をした。終わった後、ある女性がこう言ってきた。
「うちの子は難病にかかって二歳で亡くなりました。ずっと悲しくてしかたがありませんでした。でも、今日の話を聞いて、娘は何年も生き延びて家庭を壊さないようにと気づかって、二歳で亡くなってくれたのかもしれません。家族思いの子だったんでしょう」
彼女は愛する子供の早逝をそのように解釈することで、悲しみを和らげようとしたのだろう。
これで思い出したのが、東日本大震災の遺族である。震災では約二万人の死が確認されたものの、まだ約二千五百人の人々が「行方不明」のままだ。
私は震災直後から今に至るまで何百人という遺族と会って話を聞いてきた。すでに遺体が見つかった遺族は、遺体がどんなに傷んでいたとしても次のように語る。
「遺体が見つかったのは不幸中の幸いでした。ちゃんと供養ができますから」
一方で、行方不明者の家族はまったく逆の言い方をする。
「後になって見つかった傷んだ遺体を見ると、その姿がずっと記憶に残ってしまう。遺体が見つからなかったのは、もしかしたら良かったのかもしれません」
どんな形であれ、遺族というのは家族の死を背負って、その後の人生を歩んでいかなければならない。だが、人は深い悲しみだけでは生きていけない。だからこそ、その死を前向きに受け止めようとするのではないだろうか。
こうしたことこそが人間の生きる力なのだ、と私は信じたい。
プロフィル
いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)など著書多数。近著に『砂漠の影絵』(光文社)、『「鬼畜」の家』(新潮社)がある。