利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(56) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

不公正な選挙と正義を軽んじる布陣

公正な社会をつくっていくには、まず政治が公正や正義に立脚しなければならない。総選挙を前に、現在の状況を踏まえて、そのことを改めて論じてみたい。

10月4日に岸田政権が成立し、間髪を入れずに10月31日に総選挙を行う方針を表明した。日本国憲法には「いづれかの議員の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」(第53条)と定められており、野党から再三要求されていた国会召集を前政権が無視していたのは違憲だから、新政権は国会で野党と本格的に議論してから総選挙を行うべきところだ。だが、いわゆる“ご祝儀効果”で支持率が上がるタイミングで選挙を行うという目論見(もくろみ)なのだろう。自民党総裁選の話題で国民の目を引きつけて、政治的論戦を避けて選挙に突進するというのは、政権維持のためには手段を選ばないという狡猾(こうかつ)な作戦であり、不公正である。

公正には、「〈1〉遵法性、〈2〉公平性、〈3〉公明性、〈4〉互恵性」という4要素が考えられるが、新首相の政治の方式は、非合法ではないという点で遵法性は欠いていないが、目的に則した、倫理的に「公明正大」な政治を行うという要件(〈3〉)に反している。なぜなら、与野党が国会の場を通じて政策的な公共的議論を行ってから国民に審判を仰ぐというのが、政治の大道であり、スポーツにおけるフェアプレーのように清々(すがすが)しい「公正」な政治だからだ。

この不公正さは、自民党の人事にも通底している。驚いたことに、自民党幹事長をはじめ何人もの閣僚に収賄や汚職などの疑惑が存在している。過去2代の政権は、倫理的ないし法的な不正行為が繰り返し批判されてきた。もちろん、これらは正義に反するという疑いだ。

先月に私は、次の政権が倫理的な汚濁を払拭(ふっしょく)して道義を回復し、学問的・科学的真理を尊重することによって政治の浄化と政権運営を目指すことを願って、この稿を締めくくった(第55回)。残念ながら、この期待はさっそく裏切られたと言わざるを得ない。汚職や腐敗の疑いのある政治家の重用は、道義の回復や政治の浄化とは正反対だ。森友学園問題に関しても、総裁選立候補当初には十分な説明が必要だと述べたにもかかわらず、再調査を否定した。さらに学術会議問題でも、前政権が任命を拒否した会員候補を任命しないと述べた。政治的変化を願う人々の一抹の期待を裏切って、汚濁の政治を温存し、学問的真理を蔑(ないがし)ろにし続ける政治姿勢を宣明したわけだ。

問われる国民の徳義感覚

前政権の終焉(しゅうえん)は因果応報だし、前首相や前幹事長は新総裁選出の過程を経て影響力が大きく失墜し、「おごれる人も久しからず」と謳(うた)う平家物語のような栄枯盛衰を感じさせる。しかし今の政治的盛衰物語はまだ完結していない。前政権はその前の安倍政権の延長線上にあり、今回の総裁選でも、その絶大な影響力が駆使されたと伝えられる。だからこそ、その力を借りて成立した新政権には、政治的浄化が困難なのだろう。

しかし、民主政治の主権者は国民だから、因果応報の最終的結果は国民に返る。すでに“コロナ敗戦”における医療崩壊や自宅待機中の本人の責任なき死、経済的苦境といった形で、その結果が現れている。このような苦しみをさらに増殖させるかどうかは、最終的には国民の意識と選択にかかってくる。総選挙は、その選択の時だから、国民の徳義感覚が問われ、それによって因果応報が新たに生じてくることになる。そこで、そのために考えるべき基準を簡単に示してみよう。

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