現代を見つめて(60) “快挙”の背景 文・石井光太(作家)
“快挙”の背景
東京五輪の競泳代表に、池江璃花子さんが内定した。二〇一九年二月に白血病を告白し、一度は出場を諦めたものの、コロナ禍の中で治療と練習を積み重ね、見事に競技の場に復活を果たしたのだ。
池江さんの偉業は大いに称賛されるべきだろう。ただ、私はそれを支えた周りの人たちの陰の努力を思わずにいられない。
がん治療の最中、池江さんは抗がん剤の副作用で免疫力が大きく下がっていたはずだ。コロナ禍もあり、入院中は面会や差し入れに様々な制約を受けながら、周りはあの手この手で闘病を支えなければならなかったに違いない。退院後の自宅療養中は、池江さんにうつさないよう感染対策に万全の注意を払わなければならなかっただろう。
先日、中学生の妹ががん治療をしている高校一年生の男の子に話を聞いた。その時、彼はこんなことを言っていた。
「学校に行くのが怖いんだ。もし僕がコロナになったら、家で療養中の妹に感染させて命の危険にさらしてしまうかもしれない。でも、友達はみんなコロナに慣れて普通に大声で話してるし、学校を出たらマスクを外してる。コロナに気をつけようよと呼びかければ、自粛警察と呼ばれて嫌がられる。高校を休学するべきかどうかですごく悩んでいるんだ」
結局、彼は妹への感染リスクを懸念し、会社勤めをする父親とともにアパートを借りて別居することにした。経済的に厳しく、別居のために借金もしたという。
新型コロナの感染拡大から一年以上が経ち、様々なところで「コロナ慣れ」が言われている。だが、闘病中の家族は違う。自分が感染すれば、病気の家族を死なせてしまうかもしれないという不安を抱えて生活している。
池江さんの東京五輪内定のニュースは、大勢の人たちに勇気と希望を与えた。ただ、それと同時に、私たちは彼女の周りの人たちが、世間との温度差がある中で何を感じながら闘病を支えてきたかを考える必要がある。
東京五輪開催には政治の力が大いに影響しているが、世の中の温度差は私たちの意識一つで変えることができるはずだ。
プロフィル
いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)、『原爆 広島を復興させた人びと』(集英社)など著書多数。