おもかげを探して どんど晴れ(25)最終回 文・画 笹原留似子(おもかげ復元師)
2年間、拙い連載をご愛読頂き、ありがとうございました。
最後の原稿なので、おそまつではありますが、自分の話をしたいと思います。
時は1972年、母が病院の廊下で破水して、私はこの世に生を受けました。「それはもう、痛かった」と、成人してもなお、恨み節を聞かされ続けた私に大きな反抗期がなかったのは、そのせいかもしれません。
母は、僧侶で「イタコ」です。どちらが本業かは、私もいまだに分かりません。母が守るお寺は先祖代々の山岳信仰で、本尊は「役小角(えんのおずぬ)」と呼ばれる1400年以上前に実際に生きていた人です。神通力を持ち、空を飛んで移動したという伝説があり、「前鬼(ぜんき)」「後鬼(ごき)」という夫婦の鬼を従えていたことでも有名です。奈良の吉野では、その子孫に現代でもお山を守ってもらっているそうです。ですから母は、自称「鬼研究家」です。そんな母に育てられて、小さな頃から聞く話は「役小角」と「鬼」の話ばかり。
イタコについてですが、本来の業務は死者の魂を体に降ろして話をさせることではありません。それはあくまで一環で、占いや祈禱(きとう)を通して神仏にお伺いを立てて、依頼主の人生を委ねたり、昔から伝わる民俗信仰の中にある荒ぶる神のご機嫌を取って遊ばせたり、その家の運気が良くなるように呪文を唱えることが本来の業務のようです。それでもやはり人気なのは、死者を自分の体に降ろすという内容です。
あの世がとても混んでいるのか分かりませんが、死者を降ろしてほしいという依頼主がいないのに、話したい死者が勝手に母の体に降りてくる時期がありました。
小学校の頃、私が学校から帰ると、母に死者が降りていて、ランドセルを置いて、カセットテープを新しいのと入れ替えて、レコーダーの録音ボタンを押すというのが私の仕事でした。一人の死者に対して、60分のカセットテープが3~4本になることもありました。
そのような毎日を過ごしていた私は、死者とよく話をして過ごしました。宿題を見てもらったり、友達とケンカして落ち込んでいる時に、相談に乗ってもらったり、その人の人生や死というものに対する思いを聞かせてもらったり。
実際に母に降りてくる死者は、目の前で話す相手が小学校の低学年の子どもだったことで、とても困惑しているようでした。「大人の人はいないの?」と、死者からよく聞かれたものでした。平安時代の死者が降りて来た時には、国語の宿題を見てもらいましたが、教えてもらった字があまりにも古く、担任の先生から「こんな字、どこで習ったの?」と聞かれ、答えに困ったこともありました。死者と話すと、母から1回500円がもらえるので、私としては良いアルバイトでした。不思議とそのお金で買うお菓子は、「あたり」が出てうれしいものでした。
結果、死者と生者の境目はなく、体があるかないかだけの話だと思っている今の私があるのも不思議ではありません。どの時代の人が出て来ても死者はいつでも自分の家族の心配をしていました。家族との想い出を語り、家族の傍らに居るのだと、子どもの私に「分かる?」「もう一度説明する?」と、優しく語り掛けてくれていました。