利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(14) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

東アジアの再生の時

4月は桜の季節だ。お花見をした人も少なくないだろう。冬が過ぎて、植物が芽吹き、開花していく。学校は新学期を迎える。春は再生の時なのだ。

今は政治の場にも、春が訪れているように見える。昨年は北朝鮮が核実験を行ってアメリカとの間に激しい緊張関係が生じ、戦争へと進むことが危惧された。昨年9月末には、安倍政権が「国難突破解散」と名付けて衆議院を解散した。

そこで、連載の第8回では、戦争を回避するための「祈りと対話と行動」の重要性について書いた。北朝鮮危機に直面し、平和を希求する宗教団体の呼び掛けに応えて、多くの人々が自ら祈り、対話を試みたに違いない。日本だけではなく、世界中でさまざまな宗教や国籍の人々が平和を願い、それぞれの形式で祈ったのだ。

当時、国内では猛々(たけだけ)しい右翼的論調があまりにも強くて、この問題について対話を主張するには勇気が必要なほどだった。何しろ、首相は「必要なのは対話ではない。圧力だ」と国連総会で演説をしたのだ(9月20日)。対話を主張したら、軟弱とか理想論に過ぎないとか批判されかねなかった。総選挙に際し、政権に批判的な野党すら、対話の必要性をそれほど声高には言っていなかった。

でも、今はどうだろうか。東アジアの国際情勢は劇的に変わった。まず、今年2月の平昌オリンピックで北朝鮮と韓国が南北合同チームを結成して対話のムードが醸成され、韓国と北朝鮮との間での対話が開始された。先月には北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が電撃的に中国を訪問し、中朝首脳会談が行われた。これからアメリカと北朝鮮の対話が本格的に進むのかどうか、世界が息を呑(の)んで注視している。

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