利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(74) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)
画・国井 節
感染放任主義と自ら律して身を守る必要性
暖かい季節になってきた。ゴールデンウイークの歓楽気分を経て、「コロナは終わった」というように、あたかも問題が収束したような風潮が漂っている。感染症などの専門家たちが警告しているように、政治的思惑で5類になったからといって、コロナ感染そのものがなくなったわけではなく、浮かれるのは禁物だ。検査や治療も自費で賄う必要性が増大し、感染者や濃厚接触者の外出禁止も大幅に緩和されたから、コロナ感染者がいわば野放しになったようなものだ。このため感染リスクは増大し、日々の感染状況の公表もなくなってしまったのだから、人々が気づかないうちに蔓延(まんえん)してしまう危険がある。事実上は、統計隠蔽(いんぺい)と同じような効果があるわけだ。
つまり、日本政府はコロナ感染症から人々の生命・健康という公共的な健康(公衆衛生=public healthの原義)を守る役割を、ついに決定的に放棄した。経済に自由放任主義と呼ばれる政策があるが、感染やそれによる死の危険を(自由に)放任するという点で「感染(自由)放任主義」と言うべきだろう。これは残酷な政策であり、非文明的としか言いようがない。私たちは自分たちの身体が損なわれないように自ら律して身を守っていくほかない。
私が通っているある店は、コロナ問題が始まってから徹底した感染症対策を顧客に要請して行っていたが、いまだにスタッフが誰も感染していないという。これだけ蔓延したのに、やはり努力の成果は現れるものだと感心した。5類に移行してから、企業や百貨店などでマスク着用を続けるか、やめるかについての対応が分かれているが、着用を堅持する店の方が安全であることは論を俟(ま)たない。そこで、私はそういうところをなるべく選んで行くことにした。
立憲主義の理念と公共哲学
このような時代に大事なのは、周囲のムードに押し流されずに、自分自身の理念や考え方をしっかりと堅持していくことだ。先月(第73回)にはウォルター・リップマンの『公共哲学』を紹介した。宗教的ないし超越的な基礎に基づく、自由や民主主義などを擁護して文明的な品性を持つ思想のことである。
4月の衆参5補欠選挙で与党は辛うじて4勝1敗だったが、維新が勝利して躍進と報じられる一方で、立憲民主党は惜敗が多かったものの全敗した。これは当然の結果に思える。立憲民主党の結成当初に多くの人々が期待したのは、与党や希望の党に対して、まさに自由・民主主義という憲法の原理を守るという立憲主義に共感したからだ。ところが、維新との共闘路線をとって政権への批判力が弱まったために、支持者の減少を招いてしまったのだろう。ここからも分かるように、理念を薄れさせることなく堅持することが大切だ。さらに、法的原理だけではなく、超越的基礎に立脚した良識として理念を広く共有することが大事なのである。