利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(74) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

ポピュリズム 対 公共哲学

西洋諸国と同じく日本にもポピュリズムと見なされる政党や政治家がいる。小泉純一郎元首相、日本維新の会、減税日本、都民ファーストの会、れいわ新選組、政治家女子48党などがその例としてしばしば挙げられる。

一々の政党についての当否は別にして、ポピュリズムという現象には、(1)「敵と味方という二分法的発想」(2)「エスタブリッシュメント(権力層)に対する抗議」(3)「カリスマ的なリーダーによる改革の主張」などの特徴がある。中には進歩的・開明的なポピュリズムもあるから全てを一括して批判することはできないが、右派的なポピュリズムには権威主義や独裁を招きやすいという問題が指摘されている。

ポピュリズムの問題点は、人々の喝采を受けるような人気がある半面、その言説が必ずしも真実や確固たる理論・政策に立脚していないということだ。前回に述べたように、ポピュリズムに分類されるアメリカのトランプ前政権は、実際には大統領が虚偽を数多く述べていたという点で、その典型だろう。

まさにその対極がリップマンの言う公共哲学だ。彼は『公共哲学』の冒頭をプラトンの作品の引用から始めている。プラトンこそ、真実とは異なる臆見(ドクサ)による政治を批判して、超越的な真理を根拠とする道徳的政治を主張した古典的思想家だ。

リップマンは、メディアや「ステレオタイプ」に左右される浮薄(ふはく)な「世論」による政治の危険性を喝破し、人為的に作られた法律ではなく、超越的で客観的な法(自然法)が存在すると考えた。そして、それに立脚する公共哲学は、戦争のような野蛮を回避して、平和な文明的世界を支える品位礼節をもたらすという意味において、「文明的品性(シヴィリティ)の哲学」であるとしたのだ。

徳義共生主義的な共和主義の礎石

それゆえ、リップマンは、人間性を陶冶(とうや)し、文明化された人間性ないし真の自己へと倫理的に成長することを重視する。そして、私的な意見の合計ではなく、コミュニティー(統合的な人々)の公共的な利益を実現すべきだと主張する。だからこそ、彼は私的な利益追求に走る政治屋ではなく、公共的利益の実現を追求するのが本来の政治家(ステイツマン)であるとしたのである。

今日の政治哲学では、道徳的な「善き生」と「共に」(コミュナル)という二つの要素を重視するのが「徳義共生主義」(コミュニタリアニズム)である。そして、その基礎に基づく共和主義は、人々の自己統治による公共的利益の実現を目指す。よって、リップマンの思想こそ、「公共哲学」の名において、徳義共生主義的な共和主義を唱えた起点なのである。その「公共哲学」に接した政治家(前回末尾参照)は惜敗したものの、このような理想に基づく挑戦こそ、残酷な感染放任主義や野蛮な戦火の現出した危機の時代において、いずれは倫理的な品位礼節を回復し、再び平和な文明的世界をもたらすに違いない。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院人文社会学研究科教授で、専門は政治哲学、公共哲学、比較政治。米・ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と親交があり、NHK「ハーバード白熱教室」の解説を務めた。日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。著書に『神社と政治』(角川新書)、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)、『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう』(文春新書)など。

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