現代を見つめて(62) 「終息」に向かって 文・石井光太(作家)
「終息」に向かって
これまで、新型コロナウイルスで亡くなられた方のご遺族、三十人ほどに話を聞いた。この病で家族を失うとはどういうことなのか。
多くのご遺族の話で共通していたのが、次のような言葉だった。
「亡くなった家人の感染源は明らかになっていませんが、私がうつしてしまったのではないかと懸念しています。たまたま無症状で感染に気づいていなかっただけで、私が家に病気を持ち込んでしまったのではないか。あるいは、私が家人を誘って出かけた時に感染させてしまったのではないか。家人が亡くなってから、そんなことを自問自答しています」
新型コロナウイルスの感染源は、必ずしも明らかになるわけではない。だからこそ、ご遺族は自らの責任について考えるのだろう。他にも、看取れなかったことや、葬儀を行えなかったことに罪悪感を抱くこともある。
この話を聞いて、どうしても似ていると感じるのが、事故や災害のご遺族だ。彼らも、予期していなかった悲劇に巻き込まれ、何もできないまま家人を失ったという点では同じ立場だ。
家から送り出した時、「車に気をつけてね」と一言、声をかけていれば事故に巻き込まれなかったのではないか。大地震が起きた時、すぐに電話をして「逃げなさい」と言えば津波に巻き込まれずに助かったのではないか。そんなふうに考え、必要以上に自責の念に駆られる。
事故や災害で遺族となった人々が、過去の悲劇に縛られて何十年も苦しみながら生きていくように、新型コロナウイルス感染症の場合も、ご遺族は、これから長い年月にわたってトラウマに苛(さいな)まれ続けるのだろう。
本当の意味での新型コロナの終息とは何か。
大震災で町が壊滅的な被害を受けた時、「揺れが収まったから災害は終わった」と言う人はいないだろう。同じように、コロナ禍もワクチンの接種が完了したり、感染者がゼロになったりすれば終息するというわけではない。目に見えないところで心に傷を負った人たちを、どう社会全体で支えていくかを考えていかなければならないのだ。
そうした眼差(まなざ)しで今起きていることを見つめた時、私たちがしなければならないことはたくさんある。
プロフィル
いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)、『原爆 広島を復興させた人びと』(集英社)など著書多数。