現代を見つめて(30) 「最期」の迎え方 文・石井光太(作家)
「最期」の迎え方
「胃ろうは、患者さんの人としての尊厳を失うものなので、お勧めはしません」
七年前、病院で祖母の主治医からそう言われた。胃ろうとは、胃にカテーテルを通して、そこから栄養分を流し込むことだ。口から栄養摂取ができなくなった患者でも、胃ろうをすれば生きられる。しかし、単なる延命治療で、家族や医師の自己満足にすぎないという否定的な意見もある。
私の母は、悩んだ末に胃ろうを決断した。祖母は認知症で寝たきりの状態だったが、生きてもらいたいと思ったのだろう。医師は乗り気ではない口調で言った。
「胃ろうをしても数カ月か、長くて一、二年もてばいいと思います」
私も万が一を覚悟して、長男を妊娠中の妻と共に面会に行き、最後の挨拶を済ませていた。
ところが、である。手術後に特別養護老人ホームに入った祖母は、衰えるどころか、五年、六年と元気に生き続けた。その間、私には長男に続いて次男が生まれ、妹や弟の間にも子供が生まれ、ひ孫の数は合計六人になり、従弟の結婚式には車椅子で出席した。
ホームには毎週のように親族が見舞いに行くし、ひ孫たちも代わる代わる訪れてははしゃぎ回る。祖母は赤ん坊や子供の声を聞くとパッと表情を明るくし、ひ孫たちもベッドで飛び跳ねたり、マッサージをしてあげたりして、他のお年寄りと遊んで「名物見舞客」と呼ばれた。
母親は嫉妬交じりに言った。
「娘の私が行っても寝たきりで無表情なのに、ひ孫の声を聞くと急に笑顔になるから不思議よね」
手術から七年経ったが、祖母はまだまだ健在だ。
たしかに、胃ろうには「延命治療」の側面があるかもしれない。しかし、家族によって受け止め方はちがうわけで、六人のひ孫に囲まれ、毎週のように見舞いに来てもらい、記憶してもらえるのなら、むしろ私でも最期はそうしてもらいたいと思う。たとえ認知症であっても、だ。
先日、脚本家の橋田壽賀子が安楽死の願望を述べた上で、それができないのなら延命治療をしない尊厳死を望むと話したのがニュースになった。自分のために尊厳死を選ぶのは一つだが、家族のために延命治療を選ぶのも一つだ。いろんな考え方がある。だからこそ、どの考え方も否定してはいけないのだ。
プロフィル
いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)など著書多数。近著に『世界で一番のクリスマス』(文藝春秋)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)がある。