【ルポ】歴史に向き合い感じた「戦争」の現実 学生部員が沖縄で平和学習

戦時中、住民が身を潜めたガマへ

沖縄戦で情勢が悪くなるにつれ、日本軍は沖縄本島南部に敗走していく。一行は翌19日、そのルートを追うように南部を訪ねた。まず、ジャージーに着替え、向かったのは南城市にある糸数アブチラガマ。沖縄戦のさなか、住民が逃げ込み、その後、日本軍の野戦病院としても使われた場所だ。全長270メートルのガマ内は当時、約600人の負傷兵を含めた兵士と住民合わせて1000人で埋め尽くされた。

学生部員たちは、糸数アブチラガマの慰霊碑に手を合わせた

学生たちは4グループに分かれ、ガマの入り口手前で、黙とうを捧げ、階段を下りてガマに入っていく。中をのぞくが、階段の先は暗闇で見えない。懐中電灯を手に、腰を低くし、手すりをつかみ、横ばいになりながら急な階段を下りる。細い道を進むと、広い空間に出た。外の気温31度に対し、ガマの中は21度で、ひんやりとした湿気がまとわりつく。

広い場所の一角には、ロープで仕切られ、当時逃げ込んだ人々の遺品が積まれていた。日本兵の靴、薬品びん、皿、水がめ、爆発によってひしゃげたドラム缶もある。

糸数アブチラガマの入り口

また、天井の岩には、焼け焦げたように真っ黒に染まった痕があった。今はふさがれているが、そこは当時、空気孔と呼ばれ、直径1メートルほどの穴が地上に通じていた。米軍はそこから黄リン弾やガソリンの詰まったドラム缶を投げ入れ、住民を焼き殺そうとした。ある時は、生き埋めにしようと、土砂を注ぎ込んだ。

一行は、懐中電灯の明かりのみでさらに奥に歩を進める。「破傷風患者」「治療室」「脳症患者」「兵器庫」と記された看板の前を通り過ぎ、ガマの中心地に着いた。「では、ここで15秒ほど、懐中電灯を消してみましょう」。ガイドの新城啓八さん(72)が、学生たちに声を掛けた。明かりが消されると、隣の人の顔さえ見えない闇の世界に包まれた。天井から滴が落ちる音と、隣の人の息遣いだけが、耳に入ってくる。

かつてガマに避難していた住民や、けが人の看護に努めていた医療関係者の話によると、悪臭が漂い、うなり声に怒声、断末魔の叫びがあちらこちらから聞こえてきたという。十分な光も届かず、地面はぬかるみ、いつ敵に襲われるかとおびえる日々の中で、食べ物もなく、常に死と隣り合わせの生活は、「地獄」のようだったとされる。

一行の進む先に日の光が見えてきた。「ホッとしましたか」と、新城さんが話し掛けた。恐怖でこわばっていた学生たちの顔に安堵(あんど)の表情が浮かんだ。

【次ページ:戦争を否定し、平和を愛する「沖縄のこころ」を学ぶ】