“弱さ”と共に生きる――南直哉氏、小澤竹俊氏による問題提起と提言

現代社会は、家庭や仕事などで直面するさまざまな苦しみを他者と分かち合うことが難しく、孤独や生きづらさを感じやすいといわれる。厚生労働省が2017年に行った「患者調査」によると、15年前と比べ、「神経症性障害、ストレス関連障害及び身体表現性障害」の外来患者数は約1.7倍と顕著に増加している。

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こうした状況の中、苦しみやストレスへの耐性だけに注目して人間を「強い」「弱い」と判断しがちな社会にあって、人間は不完全で脆(もろ)い存在だからこそ、支え合って生きられるという見方を唱える人々もいる。多様な面を持つ人間の“弱さ”とは、一体何か――。福井県霊泉寺住職の南直哉氏と、一般社団法人エンドオブライフ・ケア協会の小澤竹俊代表理事による問題提起と提言を紹介する。

◆人は誰もが“弱い”――そのことを自覚し、共有できる世界へ

福井県霊泉寺住職 南直哉氏

南直哉氏

人間の“弱さ”とは、人が存在する構造そのものの問題です。人間が「私がいる」「私である」と意識できるのは、「自分の記憶」と「他者の承認」によってのみです。そのどちらかが欠けても自分自身を認識できない。これほど脆い存在なのだから、生まれたときから人は“弱い”と自覚することが大事であり、だからこそ仏教では、「諸行無常」と説いているのでしょう。

私たち人間が決して避けられないものに、「老い」と「死」があります。これらに直面したとき、人は他者からの身体的、精神的ケアを必要とします。しかし、これは人間の弱さの極相というべきであり、若かろうが健康だろうが、生きていく上で誰にでも困難がある以上、多かれ少なかれ他者のケアが必要なのは同じことです。ケアは、特別なときに特別な人に必要なのではなく、人間という存在の仕方、すなわち、他者との関係の中で自己として生きていくという、矛盾に満ちた在り方をする者にとって、根源的に必要な行為なのです。

よい例が、ある米国の富豪です。彼はITバブルで巨万の富を得て、美しい妻と豪邸で「遊んで暮らす」と宣言した、いわば世間の「強者」でした。ですが、その後2年ほどで離婚し、財産はまだあるのに再び働き出したそうです。その富豪が欲しかったものは、きっと他者に感謝され、能力を認められることだったのでしょう。この「認められる」という他者からのケアが、彼には必要だったのです。

このような他者との関係を作るには、やはり、お互いの弱さに触れ、共有することが大切になります。しかし、今とても心配なのは、現代の若者たちが自分の弱さを語る言葉を持ち合わせていないということです。そこには、隠しておきたいような自身の失敗談などを誰かに話すことが、良好な人間関係を壊してしまうのでは、という過敏な配慮があるように思います。

私は常々、時間の許す限り、「相談をしたい」と訪ねてくる人の話に耳を傾けるよう心がけています。ある時、大学生が来たのですが、何を相談したいのかと尋ねても、何も答えようとしません。私の方から、「こういうことですか?」と一つ一つ問いを重ねていって、ようやく自分の気持ちを整理し、何に苦しんでいるのかを自覚してもらえました。

これは深刻な問題だと痛感しました。感情は、言葉にすることで初めて自分で理解できます。この「言葉」が出てこないというのは、苦しさを他者に伝える術(すべ)を持たないということですから、どんどん追い詰められていく危険性があります。ネガティブなことでも、意を決して言語化し、他者に打ち明けられるような「ネガティブネットワーク」を持つことが大事です。その場が、当事者以外の人に開かれていることも重要でしょう。

人間は弱くて当たり前なんだというのは、誰かと「弱さの体験」を共有しない限りわかりません。一番は、小中学生のうちに、身体的な違いがはっきりとわかる高齢者や幼児に触れてもらうことだと思います。それにより、頼る、頼られるという関係を経験し、「誰かの手を借りてもいいのだ」と実感することができます。また、自分の本当の気持ちを素直に話して、共感し合える場、あるいは人を見つける努力をするのも肝要です。

現代社会は「自己決定」「自己責任」という言葉を重んじており、全てを個人で解決させようとしすぎてはいないでしょうか。しかし、「他者」「死」「自然」の三つは、自分の意のままにできません。その中で、全てを自分の思い通りにしようとして、私たちは自ら苦を生み出しているのです。苦に対してどう関わっていくか、特に、思い通りにならない他者といかにして支え合っていくか――弱さに苦しみながらも試行錯誤して生きていく中に、私たちの存在する意味があるのではないでしょうか。弱さを受け入れて、他者と共有していく。そうすることで、苦しみは軽くなるはずです。

プロフィル

みなみ・じきさい 曹洞宗僧侶、福井県福井市の霊泉寺住職、青森県むつ市の恐山菩提寺院代(住職代理)を務める。著書に『同時代禅僧対談 ――〈問い〉の問答』(玄侑宗久師との共著、佼成出版社)、『恐山―死者のいる場所―』(新潮新書)など。

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