絵が問う生きる意味――「無言館」で画学生たちの思いに触れる

戦禍の中にいても、描きたいものを表現しようと没頭した時間は、画学生にとって“救い”の瞬間だったはずだ――カメラのレンズ越しに感じた(第二展示館「傷ついた画布のドーム」で。撮影Y)

長野県上田市の山中にたたずむ「無言館」。ここは、画家を志しながらも戦争で命を落とした若者の絵を集める美術館だ。出征の直前まで、愛する人の姿や故郷の風景を描き続けた画学生の絵は、現代の私たちに“生きること”の意味そのものを問いかける。無言館を訪れ、戦争と平和について自問自答した若手記者3人の手記と、窪島誠一郎館主の談話を紹介する。

今も生き続ける画学生の絵

「飾るのは、死んだ彼らの遺品ではなく、約80年経ってもなお生き続ける彼らの絵です」――窪島さんの言葉が印象的だった。

無言館の入り口付近にある裸婦画に目が留まった。全体的に陰影が深く、同行したカメラマンが写真に収めるのに一番苦労していた絵だ。裸婦が笑みを浮かべているよう。中村萬平という画学生の作品で、タイトルは『霜子(しもこ)』。彼は出征した蒙古(中国東北部)で亡くなったという。絵の下に添えられた「享年二十六歳」に息をのんだ。自分と同年齢であった。

中村萬平『霜子』 ※クリックして拡大

裸婦の腹には我が子がいて、新たな命を迎える期待に胸を弾ませているのか、夫である描き手を見つめる眼差(まなざ)しはどことなく優しく、うれしそうだ。萬平さんが戦死するよりも前に霜子さんはお産の影響で亡くなった。霜子さんを失った萬平さんの胸中を思うと筆舌に尽くしがたい。我が子を残して二人は早世したが、この絵には夫婦の時間が今も流れている。

「抱擁とかキスでは間に合わない濃密で静かな時間だったと思います。人が持つ自己表現能力の凄(すご)さですね」と窪島さん。ふと、私はどれほど胸の内を表現できているだろうかと不安に駆られ、人生の一端を思い出した。仲違(なかたが)いをしたいわけではないのに傷つく怖さから素直になれず、思いとは裏腹な言葉を放ち、疎遠になった友人が脳裏に浮かんだ。

人と表面的にしか付き合わず、素性を隠してSNSに本心をつづる現代文化に馴染(なじ)んだ私は、同年代の画学生夫婦と、その場をやり過ごすことだけを考える自分の「生」の違いがはっきりと見え、心がざわついた。

裸婦画との出会いを通し、もうあの時のような後悔はしたくないという思いが押し寄せ、自分の「生」を問い直した。人と関わることを恐れると、隔たりや争いを生むのかもしれない。ありのままの正直な自分で人と真剣に向き合っていきたいと心に決めた。(N)

生かされているいのちを実感して

無言館の帰り道、胸の奥に何とも言えない熱い思いが湧いた。以前、沖縄県の平和祈念資料館を訪れ、大切な人が目の前で犠牲になる地上戦の悲惨さを知った時の心の痛みとは異なる感覚だった。

「胸の内に生じたものを言語化する」ことが大事だと教えてくれた窪島さんに倣い、書き出してみた。

この熱は、〈出征までの時間の中で、愛する存在を描きたい〉と願い、有限の人生を懸命に生きた戦没画学生たちへの尊敬の念だったのか――。そう言葉にしてみると、尊敬とともに、自分を支えてくれる存在と向き合い、幸せや願いを惜しみなく表現した様子に心を動かされたのだと分かった。特に、彼らの家族への愛情深さには強く共感し、互いを思い合える自分の家族に改めて感謝できた。家族と過ごす貴重な時間を本当に大切にしなければと痛感した。

「無言館」館内の様子

窪島さんは、画学生たちの遺族と過ごした時間を「祖父母や両親に説教されているようでね」と振り返る。彼らの思い出や、死と隣り合わせだった当時の話を聞く中で、戦争の歴史から目をそむけ、独力で人生を歩んできたと思い込み、両親をないがしろにしてきた自分を省みたという。「今あるいのちは自分だけのものではなく、戦争という歴史を経て、多くの人に支えられながら生かされている」。窪島さんは、いのちのつながりに気づくことで、感謝の思いが持てるようになったと語った。

翻って自分は、受け継がれたいのちをかみしめ、一日一日を大切に生きているだろうか。朝起きて息ができることを、どこか当たり前に感じてはいまいか――。自問する中で、無言館の帰りに感じた熱がよみがえった。この熱は、画学生に引き出された、いのちを輝かせて生きたいと願う私自身の情熱だった。

私のいのちを支えてくれている全ての存在への感謝を積み重ねながら、今はまだいのちの大切さに気づけていない人々に寄り添っていきたいと思う。(S)

心をつかむ、平和をつくる

78年前の夏。戦禍を生き延びた日本人は、平和と発展の道を歩き出した。しかし今、この国は再び、安保法制と史上最大の防衛費を振りかざして人々を戦争に巻き込む存在に“退化”してはいまいか――危機感を抱き、選挙や署名に積極的に参加してきたが、思うような変化が見えない。終戦の日を前に、この現実を見つめようと、無言館を訪ねた。無言館は、今を生きる私に何を伝えるのだろう。

「こんなものを造ったけど、何の役に立っているのか……」。取材中、窪島さんが呟(つぶや)いた。無言館は戦争への悔恨から生まれたが、そこに画学生の意志はない。彼らは、ごく身近な家族や恋人を描いた。お互いを大切に思い、心から愛する感情を画布に刻むことが喜びだった。それを、生き残った者は「戦争の絵」として解釈する。彼らは、愛する人の美しさを伝えたかったのに――想像を巡らせ、胸が詰まった。

館内には、画学生が家族に送った手紙などの遺品も展示されている

展示室を出て、確信した。自らの思いを露(あら)わにし、他者の心をつかみ、つながる。自己表現とはつまり、人間を人間たらしめる希望の力なのだと。そして戦争とは、この最も人間らしい幸せな営みを破壊する、究極の人権侵害というべき愚であるとも。

窪島さんは言う。「歴史や社会を考えるとは、自分を考えることに尽きる。無言館が放つメッセージがあるなら、『自分はどう生きるべきか』でしょうね」。

真の平和のためには、全く異なる立場の人々とも言葉を尽くして心を通わせ、争いを回避せねばならない。今の日本のように、仮想敵をつくり、脅威に力で抗(あらが)い、相手の言葉に耳を傾けないようでは、平和を語っても説得力がない。それは個人でも同じだ。

人と語り合い、生きる喜びを知り、それを自分の言葉で伝え、心を豊かにする。この営みこそ、画学生たちが投げかける「どう生きるべきか」への自分なりの答えだ。真面目に生きる人々の声を、二度と“無言の棺(ひつぎ)”に閉ざさないためにも、伝え続けたい。(M)

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