オンラインシンポジウム「現代世界における和解の諸問題~平和で包摂的なグローバル社会に向けて~」
パネルトーク
ICAN国際運営委員、ピースボート共同代表・川崎哲氏
『核廃絶と和解』
3年前に「核兵器禁止条約」が国連で採択されました。核兵器は非人道兵器であり、全面的かつ完全な禁止を定めて核兵器廃絶への道筋をつけ、核被害者への援助も盛り込んだ条約です。
条約にある「核被害者」とは、広島、長崎に投下された原爆の被爆者はもちろんですが、これまで放置されてきた2千回を超える核実験による被害者も含まれています。こうした援助も定められたという意味において、この条約は軍縮条約であると同時に、人道・人権の条約でもあるのです。
条約は50カ国が批准すると発効されます(この時点で45カ国が署名)。発効されれば、当然、「日本はどうするのか」と問われるでしょう。
昨年、ローマ教皇フランシスコが広島と長崎を訪れました。その時に出されたメッセージの中で、教皇は核抑止論を否定しています。一方、日本は、核兵器の脅威に対しては米国の核の傘による抑止力が不可欠であり、核抑止力の維持、強化が必要と述べています。これが、日本が核兵器禁止条約に入らない理由になっているわけですが、この論理の根幹にチャレンジしていく必要があります。
教皇は長崎で、国際的な平和と安定は、「現在と未来の人類家族全体が、相互依存と共同責任によって築く未来に奉仕する、連帯と協働の世界的な倫理によってのみ実現可能」と述べています。新型コロナウイルスを巡ってもそうですが、世界では、「敵」をつくって、その敵に負けないほどの力、物、財を持って対抗するという考えが蔓延(まんえん)しようとしています。ですから今こそ、教皇の言葉をかみしめなければなりません。
日本にとって中国の軍事的脅威は高まっていますが、これは相互的なものです。日米の一体化は中国にとっての軍事的脅威です。隣国の軍事化が怖いからこちらも軍事化するという考え方ではなく、共通の軍縮のメカニズムをつくっていく方向に、指導者の議論がなされるよう、私たちは取り組んでいかなければならないと思います。
上智大学総合グローバル学部教授・稲葉奈々子氏
『移民・難民・マイノリティの包摂』
「和解」とは、単に戦争や暴力が終わった状態を言うのではありません。戦争の影響や暴力を受けた個人が、相手をゆるして、受け入れ、さらに、関係を再構築できるような状態になって初めて、「和解」したという考えが、今は一般的になってきています。国家間で講和条約が締結されても、個人に及ぼされた影響は終わっていません。傷は何年経っても残り続けており、これでは「和解」に至ったとは見なされなくなっているのです。
日本には今、在留資格がなく、難民申請をし続けている人たちがいます。日本の難民認定率は0.4%。ほとんど難民に認定されていない状況で難民について語るならば、非正規滞在をしている「仮放免者」について語らざるを得ない状況です。
30年ほど前、外国人労働者の問題が浮上しました。日本は好景気で、多くの外国人を労働者として受け入れていたのですが、平和を求めて日本に来ていた人たちが今や、非正規滞在者として追放の対象となっています。30年間、在留資格がなく、何の権利も認められずに放置し続けてきた現状を考えると、日本の政府は、人の人生を何だと思っているのだろうと、怒りを感じると同時に驚きもします。
ただ、この間、在留資格がなくても生活ができたのは、実際は社会的には包摂されてきたからだと思うのです。そこには宗教が大きな役割を果たしています。入国管理局の収容施設で、宗教団体が面会活動を行っています。収容者の話を聞き、差し入れをしたり、仮放免に必要な保証金を払ったりして、その後の生活も支えているのです。
宗教も含めた市民社会が国家の理論に対して異議を申し立てるという事態が、難民申請者を巡って起きています。法に違反しているなら仕方がないと思いがちですが、国家が個人の人生を台無しにするほどの力を行使していいということにはならないのです。
フォトジャーナリスト 安田菜津紀氏
『公正な社会をめざして』
「ホロコースト」(ユダヤ人大虐殺)が行われたアウシュビッツミュージアム(アウシュビッツ・ビルケナウ博物館)を訪れた時のことです。日本人唯一の公式ガイドである中谷剛さんのお話がとても印象的でした。「ホロコーストというのは、ヒトラーという一人の人物だけが起こしたのではなく、『ユダヤ人なんて出ていけ』『障害者なんていらない』といった街角のヘイトスピーチから始まったものなのです。ここで振り返ってみてください。今、日本社会というのは、あのホロコーストとヘイトスピーチの間のどこに立っていると思いますか」。非常に鋭い投げ掛けですよね。今、私たちの立ち位置はどこにあるのでしょうか。
神奈川県川崎市で特定の民族やルーツを持つ人たちを排斥しようとする「ヘイト街宣」がたびたび繰り返されてきました。しかし、ヘイト街宣の参加者以上に、差別やヘイトスピーチを許さないとしてプラカードを掲げる「カウンター」の人たちが集まっています。
差別についての課題は山積みですが、ここ数年を見ると必ずしも社会が後退しているばかりではないと感じています。「LGBT(性的少数者)は生産性がない」と言った衆議院議員がいましたが、議員が所属する党本部前に駆け付けた人たちもいました。発言を大きな問題としたのは当事者だけでなく、多くの人が集まって抗議の声を届けたのです。
自身を振り返ると、私は学生時代の飲み会の場で、大変失礼なことにセクシャルマイノリティーの方を揶揄(やゆ)してしまったことがありました。「和解」「包摂」というのは、自分自身の加害性に気がついていくことが原点にあると思います。気がつかない限り、差別やヘイトというのは人ごとであり続けてしまう。冗談のつもりで言ったことが、実は誰かを無意識に傷つけてしまったかもしれない。気づいた時に、見ないふりをするのか、それとも、そこから行動を変えていこうと思えるのか、後者であれば、社会のあり方が変わる可能性が高まっていくと思っています。