SNSの時代に宗教はどうあるべきか カトリック教会でシンポジウム

シンポジウムは、日本カトリック司教協議会諸宗教部門の主催で行われた

『SNSと宗教――LINE、Facebook、Twitterがわたしたちに問いかけるもの』と題したシンポジウムが9月22日、東京・千代田区のカトリック麹町教会ヨセフホールで行われた。主催は日本カトリック司教協議会諸宗教部門。カトリックの信徒をはじめ市民ら約130人が来場した。

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、誰もが情報を瞬時に発信・受信することができ、世界の人々とつながれるコミュニケーション手段として、国内外で利用者が増大している。ビジネスでも活用され、利用目的に応じたサービスも年々、充実。若者だけでなく、さまざまな年齢層で活用されて裾野が広がっているのが現状だ。一方、いじめや詐欺、フェイクニュースといった偽情報の流布、過激派による若者の勧誘などの問題も起きている。こうした状況を踏まえ、「人々に語り掛けることを大切にしている宗教は、このインターネット社会をどのように捉えていくべきか」を考えようと、今回のシンポジウムは開かれた。

当日は、パネリストとして曹洞宗浄国寺(熊本市)の中山義紹住職、日本カトリック神学会の阿部仲麻呂理事、IT企業で執行役員を務める志立正嗣氏がテーマに沿って講演した。

曹洞宗浄国寺の中山義紹住職

この中で中山氏は、情報を検索し、知識を得る手段としてインターネットやSNSの利便性、有効性を認めながらも、仏教では知識・知恵と智慧(ちえ=パーニャ・般若)を区別していると説明した。さらに、人間が生きている限り人生には苦があり、その元にある執着を離れるには、仏教の説く智慧を身につけることが必要であると説示。呼吸と姿勢を整え、今の自分に気づき、余計な意識のスイッチをオフにする坐禅を例に挙げながら、「智慧は体感(皮膚感覚)を伴う関係性がないと伝達することができない」と話した。

その上で、インターネットは情報や知識が飛び交う、あくまで「自分で考えた世界=脳化社会(養老孟司氏の指摘)」の事象であり、体感を伴う関係性がないにもかかわらず、それを万能と考えて使い方を誤れば、利用者の執着が増して苦を招くと指摘。「インターネットやSNSの可能性はすごいものがあるが、だからといって、皮膚感覚や体で伝える重要性を忘れたら、良いもののはずが、人間自身を苦しめるものになりかねない」と語った。

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