庭野平和財団GNHシンポジウム特集3 哲学者の内山氏が基調講演(後編)

効率を追い求めた先に見えてきた、巨大システムの限界

私たちは近代以降、特に「戦後」と言い換えてもいいのですが、「大きなもの」が力を持つ時代を過ごしてきました。地域的には、大都市が力を持ち、私の住む上野村(群馬県)のような小さな山村は、徐々に力を失っていきました。その結果、過疎になり、さらに複雑な問題を抱えるようになっていったのです。

群馬・上野村の「龍神の滝」

大きなものが力を持つ時代には、大きなシステムがどんどん形成されていきます。これによって、人々の生きる目的も、そのシステムの中でポジションを取ることに変わっていきました。現代の人々は、常にポジション取りをしているようなものです。

小・中学生の頃には一生懸命に勉強し、できるだけ良い高校に行きましょう、と思わされる。良い高校に行った方が、将来のためのポジションを取りやすくなるからです。次に高校に入れば良い大学にとなり、大学では、できるだけ良い企業に就職することが良いという話になる。そして、就職後は、本人が望むと望まないとにかかわらず、会社でのポスト争いに追われていく……。

退職後もまた、「安楽な老後」というようなポジションを取らなければいけないようになっている。システムの中で、ポジション取りに追われているうちに人生が終わってしまう。そういうものが、いつの間にか人間の生き方になってしまいました。

こうした「発展」の裏で、私たちが失ってしまったものは、「幸せに働き、幸せに生きる」ということです。こうした「幸せに働き、幸せに生きる」世界が消えてしまい、目の前に見えるポジションを取ろうとして頑張り過ぎる人生が、一人ひとりに要求されているように見えます。

しかし、今、新卒で就職しようとしても、3割近い人がその時点で非正規雇用です。働いている人の全体では、4割が非正規雇用になります。ですから、ポジションを取るにしても、そこから弾(はじ)かれていく人たちが山のようにいます。一方、名だたる大企業に勤めれば安心かというと、その企業がいつつぶれるか分からない。近頃、大企業の組織ぐるみの不正問題が取り沙汰されていますし、経営に行き詰まり、海外の企業に買収されることもある。これまで経済を支えてきた大きなシステムに、いろいろとガタが来始めているのです。

つまり、システムの中でポジションを取るという考えが現代ではむしろ、幸せを失っていくという意味も含んでいるということです。いろいろな意味で、このままでいいのかと問わざるを得なくなってきているのです。

【次ページ:幸せに生きるために】