開会式での光祥次代会長のスピーチ 国際ムスリム共同体会議から

世界宗教者平和会議は1970年より始まった世界最大級の諸宗教対話運動で、世界90カ国以上に国内評議会がありますが、中でも日本委員会は活発な活動を展開しております。残念ながら日本政府は、政策として移民・難民をほとんど受け入れません。そこで世界宗教者平和会議日本委員会ではシリアから毎年ムスリムを中心とした5~6名の青年を留学生として受け入れ、諸宗教の仲間がこぞって彼らの勉強面、生活面で相談に乗り、宗教面では彼らが信仰生活を無理なく続けられるよう、微力ながら支援しております。

ここで少し仏教の視点で話をさせて頂きます。

仏教では「縁起」を説きます。それは「全ての物事は出会う縁によって生起する」ということ。つまり世界を関係の中で捉えます。それも固定された関係ではなく、常に変化する動的な関係です。

例えば、仏教徒である私はUAEでは少数派ですが、日本ではムスリムが少数派です。自分が多数派なのか、少数派なのかも、変化する関係の中にあります。それを実感するには、自分がいかに多くのものに支えられて生かされているかを知り、自分が自分以外の全ての存在によって生かされていることを認識し、全てのものと「共にある」ことに目覚めることが大切です。

例えば、私の体は毎日私が食べたものでできていますが、私が今朝、朝食で食べたバナナは、フィリピンの大農園で働く子供たちが収穫したのかもしれません。そうだとすれば、その子供のおかげで、彼に支えられて今、私は存在しているといえます。私の命の中に、そのフィリピンの子供が共に生きています。人間は皆そのように存在しています。

また、私が仏教徒であるのは、仏教徒以外のムスリムや、キリスト教徒、ユダヤ教徒がいるからです。もし世界中が仏教徒だったら、仏教徒という呼び名は必要なくなるでしょう。つまり、他の宗教を信じる人がいるおかげで自分の宗教が存在している。何教であろうと、何ぴとであろうと、他者の存在によって自分が存在している。これが仏教的な考え方です。

ですから仏教では初めから悪い人間も、初めから良い人間もいないと考えます。誰もが内面に善き心と悪(あ)しき心をともに具(そな)え、出会う縁によって変化する、弱い存在なのです。

そういう視点で見れば、どんな人も初めからの悪人、そして絶対的な悪人はいません。私が今、平和を求める仏教徒としてここにいるのも、私が初めから平和的な人間だったからではなく、私がこれまで出会った全ての人々のおかげなのです。