あんな悲しい思いを二度と誰にもさせたくない 被爆体験証言者・吉田章枝氏
8月6日から1カ月が経ち、私たち親子は、行くあてもなく、饒津神社の公園にずっと暮らしていました。9月に入り、雨が降り出し、地面にじかに敷いた畳は、2、3日続いた雨で、下からじっとりとぬれてきます。周りは急にさびしくなってしまいました。気がつくと、公園からだんだん人が少なくなっていきます。お隣の御主人は軍管区司令部で被爆され、外傷もなく帰られたけれど、なんとなく元気のない様子でした。そのご主人の様子が、一週間前からおかしく、歯茎から出血し、下痢が続き、体中に暗紫色の斑点が出て、髪の毛が抜けてきました。悪いガスを吸われたらしいと聞きました。それが、放射線の被害だったことを随分後になって知りました。
私たち親子は、父がどこからか帰ってくるような気がして、ひたすら待っていました。ある日、母は言いました。「お父ちゃんは、あの爆風で吹き飛ばされちゃったんだろう。『秋子、秋子!』と、呼びながら……」。これだけ捜して見つからないということは、きっと、そうだと思うよ。そろそろ死亡届を出そうと思うけど、それでいいか」と、私に聞きました。父も、姉も、妹も、みんな母の名前を呼びながら、逝ってしまったのです。母と私二人だけがここに残されたのです。私は、「それでいいよ」と、涙ながらにうなずきました。
でも、お父ちゃんは、私の胸の中にいつまでも生きています。あの優しい笑顔のままで……。父は私たち姉妹をとても大事に育ててくださいました。お休みには山登りに連れて行ってくださったり、私が食べものに好き嫌いを言うと、「おねぎの白いところを食べると頭がよくなるよ、ニンジンを食べると髪がきれいになるよ」といって、優しく偏食をなおしてくれました。私は父に叱られた記憶はありません。いつも、じっと遠くから見守ってくださっていたように思います。
次の日、父の勤務先へ死亡届を出しに行きました。ガランとした広い事務室にたった一人、男の方がおられました。手続きを終えた後、父の机の中から陶器の小さな一輪挿しと、お湯飲みを持って来てくださいました。父は、私たちの手のひらにのってしまいました。父は50歳と1カ月でした。
1902年生まれの母はその後、私と共に暮らし、1998年に95歳で亡くなりました。私は、今年5月で89歳になりました。私は、原爆の記憶から遠ざかりたい、忘れてしまいたいと60年間思い続けました。
しかし、被爆60周年を迎えた時、こんな家族があった、こんな人が生きていた、そしてこんな暮らしがあったということを、誰かに伝えなければならない、そんな思いになり、やっと、手記を書きました。
あんな悲しい思いはしたくない。させたくない。戦争はしてはいけないと思います。流されてはいけない。大きな波に流されてはいけない。どこかで止めなきゃいけない。今そんな思いがしています。
二度と私のように悲しい思いをする人がないようにと祈ります。皆さん、どうぞご家族、お友達と仲よくし、身の回りからの平和を大切にいたしましょう。
(8月4日、大聖堂で行われた講演から)
プロフィル
よしだ・ふみえ 1929年、広島市生まれ。証言者として、NPO法人「ヒロシマ宗教協力平和センター」(HRCP)で被爆体験を語っている。
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