あんな悲しい思いを二度と誰にもさせたくない 被爆体験証言者・吉田章枝氏

どのくらいの時間が経ったのか、気がついたら、私は工場の食堂の窓から外を見ていました。前の道をトボトボと歩く人が見えます。

体中にボロ布をまとったような人たちが、両手を前に出して、何かをぶら下げているような格好で、次から次へと、ゾロゾロと東の方の郊外に向かって歩いていきます。だいぶ経ってから、そのボロ布のようなものが、やけどで傷ついた皮膚だということを、誰からか知らされました。

「広島駅の方がやられたらしく、火災が起きているから駅前は通れない」という声が、聞こえてきました。長い長い時間が経ちました。やっと先生に引率されて、友人4人と家の方へ向かって歩き始めました。

逃げる途中の峠に上って見ると、市街地は真っ黒い煙で覆われて、何も見えません。火の先は、すぐ近くの町まで延びてきて、チョロチョロと燃えていました。

峠の道は負傷者でいっぱいなので、峠を後戻りして、知らない道を山伝いに歩きました。夕方遅く、やっと家の近くの饒津神社(にぎつじんじゃ=現・広島市東区)前までたどり着きました。

その時、一人の少年がすっと近づいてきました。服は焼けただれて何も身に着けず裸足(はだし)のままで、顔も全く見分けがつかなくなっていました。すると、友人の一人が、その子の名前を呼んで走り寄りました。それは、友人の弟さんでした。

後に、友人は「向こうから『おねえちゃん!』と呼んだから、分かったけれど、呼ばれるまでは全く気づかなかった」と、話していました。友人と弟さんは、自分たちの家の方へと帰っていきました。その弟さんは翌日亡くなられたそうです。

饒津神社は本殿が焼け落ちて、石垣だけが残っていました。神社の敷地内に、母を見つけました。両方から駆け寄って抱き合いました。涙があふれ出してきました。

父も姉も妹も帰って来ません。わが家は全壊して、ペシャンコになって跡形もありません。なすすべもなく、その夜は、倒れた家から畳2枚を、近所の人が持ち出して来てくださって、みんなで横になりました。市内中心部の西の空は、いつまでも炎で赤く染まっていました。

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