被爆体験を後世に ヒロシマの実相を伝える、三人の平和の祈り

岡ヨシエさんの被爆証言を伝承するヒロシマ宗教協力平和センターの波多野愛子さん(左)と梅津千秋さん

広島市に原爆が投下されてから73年。多くの人が苦しみの中にあったあの日を後世に伝えてきた被爆者は少なくなっている。広島市では6年前から、被爆者に代わって体験を伝承する取り組みが進められている。当時、学徒動員で軍の任務にあたっていた岡ヨシエさんは自らの被爆体験を語り続け、昨年5月に亡くなった。その岡さんの体験を引き継いだのは、NPO法人「ヒロシマ宗教協力平和センター」(HRCP)の波多野愛子さん(65)と梅津千秋さん(60)だ。3人の紡ぐ平和への願いに迫る。

マイクを手に説明を始める波多野さん

6月下旬、波多野さんと梅津さんは、諸宗教者やその信徒らが集う「平和集会」で岡さんの被爆体験を語るため、広島・呉市を訪れた。109人の聴衆を前に、まず波多野さんが語り掛けた。

「では最初に、岡さんが働いていた中国軍管区司令部防空作戦室の当時の様子を投影した、県立福山工業高校の生徒が作成したCG(コンピュータグラフィックス)をご覧頂きます」

大日本帝国陸軍の中国軍管区司令部防空作戦室は、爆心地から790メートル離れた広島城内にあった。半地下式の構造で、現在は、旧防空作戦室跡(被爆建物)として保存されている。スクリーンには、被爆前の広島城周辺の情景から防空作戦室内の映像が投影され、その内部にあった情報室、通信室、指揮連絡室、作戦司令室の様子が紹介されていく。時折、学生たちに向けて証言していた生前の岡さんの姿が映し出される。

「皆さんも大人になっていってね、二度と戦争を起こさないように頑張ってほしいですね。本当に戦争の悲惨なことを目の前で見ているから……」。切々と語る岡さんの声が会場に響く。映像が終わると、波多野さんが原爆投下の経緯や広島市の被害に触れた上で、その時の岡さんの状況を説明した。落ち着いた口調で、事実を淡々と語るのが波多野さんの役割だ。

1945年8月6日午前8時15分、岡さんは防空作戦室内の指揮連絡室で被爆した。当時、比治山高等女学校4年生(現在の中学3年生)の14歳。学徒動員によって、電話交換機を通して空襲・警戒警報を各所に伝達する任務を負っていた。投下直後、「広島が全滅しています。新型爆弾にやられました」と軍に第一報を知らせたのは岡さんだといわれている。

岡さんが任務に就いていた指揮連絡室の窓。原爆投下時、爆風が吹き込み、まぶしい光が差し込んだ

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