食から見た現代(22) グリーフシェアクッキング 文・石井光太(作家)

坂上氏が運営するNPOでは、子どもを亡くした親をはじめ、孫を亡くした祖父母や伴侶を亡くした方々に向けて、「クッキング」を通したグリーフケア活動を行っている。立場ごとに異なる深い悲しみに寄り添い、孤独を抱える人々を幅広く支える取り組みを進めている。(写真はすべて坂上氏提供)
東京都新宿区の若松河田駅から目と鼻の先にある小さなマンションの一室で、その料理教室は月に1~2回開催される――。
1月の最終の日曜日、3階の部屋には、エプロンをつけた男女6人が集まっていた。彼らが作っていたのは、アクアパッツァ、トマトスープ、サンドイッチだ。
6人は調理師の指示を受けて役割を分担して調理を進めていく。4匹のヒラメをさばく係、豆乳のトマトスープを作る係、サラダを作る係、アクアパッツァのソースに絡めるパスタを茹(ゆ)でる係……。狭い室内でおしゃべりしながら、淡々と手を動かしていく。時間が経つにつれ、野菜や魚を煮る香りが室内に広がっていった。
ここが一般的な料理教室と異なるのは、調理スペースが書類の山積みになったNPO法人「病気の子ども支援ネット遊びのボランティア」のオフィスのキッチンであること、そして参加者が子どもを難病で亡くした遺族であることだ。これは同団体が開催している「グリーフシェアクッキング」と名づけられたイベントなのである。
一般的なグリーフケアは、家族を亡くした人たちがカウンセラーや医師といった専門家に話を聞いてもらったり、同じような立場の人に体験を語ったりすることによって悲嘆を薄めようとするものだ。
他方、グリーフシェアクッキングが行っているのは、「ケア」ではなく、「シェア」だ。料理教室という名目で遺族が集まり、調理によって気を紛らわした後、ゆっくりと過去を振り返り、悲しみを〝共有〟する時間なのである。
病気の子ども支援ネットが、グリーフシェアクッキングの活動をはじめたのは2022年の春だった。
初年度だけで24回開催され、60人が参加した。それ以降、毎年同じくらいのペースで開催され、参加者の数は着実に増えている。
子どもを難病で失った親の悲嘆は、経験したことがない人には想像もできないほど大きい。私自身、子どもの死をきっかけに心を病み、10年以上経っても社会復帰どころか、日常生活すら営めずにいる遺族に何人も会ってきた。だからこそ、彼らがお互いを知り合う機会を設けることには意義があると感じる。
参加者は、いつもとは異なるキッチンで、普段は作らないレシピを渡され、一心不乱に調理に向き合うことによって、一時であってもつらい現実から目をそらすことができる。でき立ての料理を食べて体と心を温めた後、同じ境遇の人たちとテーブルを囲んでわが子の闘病体験や思い出を語り合う。死別の悲しみを受け入れ、前を向いて歩んでいくためには、そういう時間がどうしても必要なのだ。
料理教室に訪れた人たちは、次のような感想を残している。
「忙しく手を動かしておしゃべりをすると気持ちが軽くなって元気をもらった」
「作ったものは持ち帰って、お仏壇に供えました」
「ふさいで家にこもっていた娘と一緒に料理ができたことがうれしかった」
短い言葉の中に、グリーフシェアクッキングをステップに前を向こうとする人たちの思いが凝縮されている。大半の人は、2度、3度とくり返し参加するという。シェアを積み重ねることによって少しずつ心を回復させていくのだろう。
同団体は34年の活動歴を持っているが、先述のようにグリーフシェアクッキングの活動歴は3年ほどだ。それまでの主要な活動は、遺族に向けたものではなく、病院で闘病中の子どもたちに遊びを提供することだった。なぜ、彼らは遺族のグリーフに目を向けたのか。
病気の子ども支援ネットを立ち上げたのは、今も代表を務める坂上和子氏(71歳)だ。
彼女は恵まれた家庭に生まれ、食に精通して育ったわけではない。8歳で母親と死別し、その後、父親も行方がわからなくなったことから、親戚の家を転々とした後、10歳で都内の児童養護施設に入所するという経験をした。そのため「家庭の味」というのをほとんど知らなかったという。
18歳で一旦退所した後、進学費用を貯めるために1年間児童養護施設の給食室で調理補助係として働いた。調理師たちの下について毎日職員を含めて250食を作ったそうだ。この時、先輩の調理師から学んだのが、料理にひと手間を加えることで味が格段に良くなり、食べた人を幸せにできるということだった。
その後、彼女は夜学の専門学校へ進学して保育士の資格を取得し、7年ほど保育園に勤務した後、障害児者通所施設「新宿区立あゆみの家」に転職。ここが当時としては珍しく、病院に入院中の子どもに対する保育士の派遣事業を行っていたことから、彼女も病院で難病の子どもたちの保育をするようになる。
当時、坂上氏が派遣されていたのは、新宿区にある国立国際医療研究センターだった。全国的にも名の知られた総合病院だったため、地元だけでなく各地から患者が集まっていた。そのため、彼女は新宿区在住の訪問対象となっている子どもだけでなく、同じ病棟の様々な子どもたちとも一緒に遊んだ。
ただ、あくまであゆみの家が派遣対象にしているのは新宿区在住の病気の子どもたちだ。対象の子どもが退院すれば、坂上氏たちは必然と他の子どもたちを置いて別の場所へ派遣されなければならない。
ある日、難病の子どもの親から訴えかけられた。
「(訪問保育の対象の子どもがいなくなって)坂上さんたちが来なくなったら、病棟に残された(うちの)子どもはどうなるんですか? これからも遊びに来てください! 坂上さんたちは自分たちの仕事の大事さをわかっていない!」
坂上氏は頭を叩かれたようなショックを受け、小児病棟の師長と話し合い、あゆみの家の保育士6人でボランティアとして定期的に訪問をし、遊びの機会を提供することにした。
1991年にはじまったこの活動が、病気の子ども支援ネットの母体となった。その後、坂上氏たちは少しずつ協力者を増やしながら、国立国際医療センター以外の病院の小児病棟へと活動拠点を広げていった。
これに伴い、活動内容も多様化した。病棟のプレイルームで行う夏祭りやクリスマス会のような季節の行事から、ベッドサイドで子ども一人ひとりに向けた楽器演奏や粘土ケーキでの誕生会など様々なことをした。
また、病棟内のボランティアだけでなく、書籍の出版、学会での報告、勉強会の主催、病院への遊具の寄贈、それに全国の他団体との連携活動など、この分野の先駆として次々と新たな取り組みを行っていった。
こうした状況が一変したのは、活動が30年になろうとしていた矢先の2020年だ。新型コロナウイルスの感染拡大によって、全国の病院が感染予防対策として病棟内のイベントを中止するだけでなく、ボランティアの受け入れ自体を大幅に制限したのである。
病気の子ども支援ネットの活動は、病院の受け入れ体制なくしてはありえない。ほぼすべての活動が強制的に休止されたことで、坂上氏はNPOとしての活動を閉じるべきか迷っていた。
そうした中で新たに取り組むことにしたのが、コロナ禍の病院で働く医療者たちの支援だった。全国の支援者から野菜を集め、週に1度のペースでサラダを作り、病院に勤務する医療スタッフに届けたのである。約2年間の活動で、その数は2病院で3500食に達した。
この活動をしている間、坂上氏は本格的に調理を学ぶ必要があると考え、都内の調理専門学校に入学した。66歳にして、料理人を目指す20歳前後の若者に交じり、包丁の研ぎ方から魚のさばき方、そして中華、洋食、日本食、さらにはお菓子のレシピを徹底的に学んだのである。
専門学校を卒後した2022年の春、坂上氏は知人の女性からある相談を受ける。病院へ配るサラダ作りに参加していた甲斐康子氏だった。彼女からこう言われたのだ。
「坂上さん、ここで遺族に対するグリーフケアをやってくださいませんか」
彼女は1年半ほど前に11歳の息子をがんで失っており、大きな悲しみを抱えたままボランティア活動に加わっていた。
坂上氏は困惑した。長らく難病の子どもの支援にかかわったとはいえ、保育士である自分が遺族に深く寄り添うグリーフケアができるとは思えなかった。坂上氏が「それは難しい」と断わったところ、彼女は言った。
「別に難しいことじゃなくて、私がここに来てこうして坂上さんやみんなと話をする。そういうのでいいんです」
この時、坂上氏の頭に浮かんだのが料理だった。彼女は言った。
「料理なら教えられるけど、それでいい?」
「参加したいです」
こうして月に何度か事務所に遺族を招き、料理をしながら遺族と話をするグリーフシェアクッキングがはじまったのである。
グリーフシェアクッキングに初参加の遺族を迎える際に、坂上氏が決めていることがある。初回に限って遺族の数を2名に限定することだ。
グリーフシェアクッキングに来る人たちは、みんな話したいことを山ほど抱えている。だが、参加者の人数が多ければ、1人に割り当てられる時間は短くなってしまう。思いの丈を一通り話してもらうためには、一定の時間を確保しなければならない。





