栄福の時代を目指して(8) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

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トラギアスの金儲け政治とニーチェ思想
カリクレスの非倫理的な快楽主義を確認して即礼君は、夢中のトラギアスの面影をまざまざと思い出した。学者は「滑稽だ」というトラギアスの声が聞こえてきそうな気がした。トランプ大統領が「ディール(取引)」という言葉で外交をしているように、トランプ風ギリシャ人・トラギアスは、ビジネスによって巨富を手にしたことを自賛する金儲(もう)け至上主義的な発想で政治を語っていた。そこには、倫理的な徳の発想はなく、快楽を幸福と見なす快楽主義が見え隠れしていたようだ。してみると、トランプ政権の強者支配・勝利の論理の底にある快楽主義を、恰幅(かっぷく)がよく肥えているトラギアスの姿は視覚的に象徴しているのではないだろうか。
そのビジョンには、ソクラテスが語るような倫理的な徳の雰囲気はない。
――「でも、なんでカリクレスではなく、トラクレスと聞こえたのだろう? もしや、トラギアスと同じように、トランプ+カリクレスという合成語なのではなかろうか。そう言えば、トラシュマコスにもトラが入っている。トラギアス、トラシュマコス、トラクレス――いずれもトランプとの類似性を仄(ほの)めかしているのかもしれない。でも、こんなことが起こり得るのだろうか。これは、自分の脳の所産なのかな?」。そう考えていると、今度は「トラーチェ」という名前がささやくような音で浮かんできた。「トラ+チェ?」と考えると、思いつくのはニーチェだ。「そういえば、ニーチェの思想はトラシュマコスやカリクレスとの間に類似性があるような気がする」と思って生成AI・チャット君に確認すると、まさにその通りだった。
現代思想の淵源(えんげん)とされている哲学者ニーチェは、キリスト教的禁欲主義を「生への否定」として、受動的ニヒリズムの一形態と見なした。また、抑圧的な理性によって本能や欲望が押し殺されることを批判し、生の肯定に基づく価値再評価を提唱した。彼は、自然界における支配と従属の関係を倫理的に裁くことなく肯定し、「道徳的平等」という近代的理念は、弱者のルサンチマン(怨恨=えんこん)から生じた虚構であると主張した。道徳の起源については、かつては力ある者による「貴族道徳」が支配的だったが、現在は力なき者による「奴隷道徳」が支配していると論じている(『善悪の彼岸』『道徳の系譜』)。
ニーチェは、ソクラテスについて、理性の力で感情や本能を抑え込み、生の否定を体現する存在と批判した。カリクレスが彼を「滑稽」だと評したように、「病的」と見なして、理性万能主義の象徴としたのである(『偶像の黄昏』)。また、カリクレスの法律論と似て、ニーチェも当時の道徳を「奴隷道徳」と呼び、弱者が強い人々に対抗するための価値の転倒と位置付けた。だから、トラシュマコスやカリクレスからニーチェへは思想的な線が明確につながっているのだ。
さらに、トラシュマコスは強者支配の正当化だけを論じているのに対し、カリクレスやニーチェは、快楽や道徳、文化といった広いテーマに踏み込んで、人間の生や価値のあり方にまで射程を広げている。
マキャヴェリとリアリズム
――こう気づいて、「まるでニーチェはカリクレスの生まれ変わりみたいだ」とまで感じたのだった。すると間髪を入れず、「トラヴェリ」というささやきが聞こえた。「この声は何だろう」と訝(いぶか)しみつつも、「トラヴェリはトランプ+マキャヴェリ」だろうとすぐに思い至った。チャット君に「これらの思想家はマキャヴェリとも似ていますか?」と問うと、「その通りです」と答えてきた。(ⅲ)
マキャヴェリは、安定した統治のためには政治における権力操作を必要とすることを認め、「正義」も支配を円滑に進めるための一種の仮面として用いることができるとする点で、『国家』のトラシュマコスと通じている。ただし、「快楽や自然な欲望の肯定に重きを置いたカリクレスとは異なり、国家の建設と維持を最優先とし、道徳さえもそれに従属させる立場をとる点で、その立場は統治に徹した現実主義(リアリズム)に立脚している」という。
――「リアリズム?」。この言葉には聞き覚えがあった。
国際政治の議論で「リアリズム(現実主義)」といえば、国家が自己の安全や利益を最優先し、力の均衡によって国際秩序の安定を図るという立場だ(ハンス・モーゲンソーなど)。「力の均衡」論もこの流れに属する。
これに対して、「理想主義(アイディアリズム)」ないし「リベラリズム」と呼ばれる立場があり、民主主義や法の支配、人権といった価値を国際的に広めようとする考え方だ。トランプ政権はそれを否定し、国家利益重視の現実主義的な姿勢を鮮明にして、力の均衡に立脚したリアリズムに回帰していることになる。(ⅳ)
そこで即令君は、チャット君にこれらの哲学や理論とトランプ政権の関係を問うと、共通点を肯定しつつ、トランプ氏は「古典的リアリズムを感情・ポピュリズム・自己中心主義的交渉論に変質させた異形のリアリズム」であり、「トラシュマコス主義×エンターテインメント×自国第一主義」の「ポスト真実的トラシュマコス主義?」と返答してきた。よくわからないところもあったものの、グリーンランド領有やカナダ併合すら公言していることを考えると、まさに「捕食の帝国」はトラシュマコス主義的ハイパー・リアリズムなのかもしれないとも思えてきた。
歴史は繰り返す――即礼君のフラクタル構造発見?
――「そういえば、高校の科目・倫理で、古代ギリシャにも近代と同じような思想があったと習ったことがある。デモクリトスが原子論(最小で不可分の原子から物質が成り立っているという説)を、エピクロスが快楽主義(快楽の追求を人生の目的や幸福とする説)を提起したというように、もしかすると、カリクレスが述べた快楽主義は、エピクロスと似ているのかな」
こう考えた時、また既視感がまざまざと甦(よみがえ)ってきた(前回参照)。トラギアスが出てきた夢の中で、トランプ政権とソクラテス対話編の議論との間の類似性に気づいたのだが、トランプ政権の発想とトラシュマコスやカリクレスらのソフィスト、さらにマキャヴェリ、ニーチェ、国際政治のリアリストとの間に近似性があり、同種の考え方がギリシャ、近代、現代と周期的に再生しているのではないだろうか。つまり、強者の支配が正義という考え方は、何回も繰り返されているのである。さらには、もしかするとこれらの非倫理的・現実主義的思想だけではなく、理想主義など他の思想も同じように周期的に現れているのではなかろうか?
唐突に、ある緑の植物の模様が浮かんだ。「これは何?」と思った次の瞬間、枝、カリフラワー、雪、雲、海の波や海岸線、川や山、星々などが瞬間的に点滅した。もちろん実際の目で見えたわけでないが、一種の心象風景のように次々と映じた。
初めの植物は、植物図鑑で見たシダのようなものだった。すぐにわからなかったが、続く心象映像の連続的でハタと気づいた。「これは、自然界におけるフラクタル構造の姿だ!」
彼は、フラクタル構造についての説明を読んだことがあった。フラクタル構造とは、図形の全部と一部が相似形(自己相似性)を成していて、全体を幾つかの部分に分解しても同じような形が再現される幾何学的構造を言う。フランス人の数学者ブノワ・マンデルブロが1975年に、複雑ないし混沌(カオス)としているさまざまな事象に数学的規則が当てはまることを発見し、自然界にもだいたいこれに似た構造がさまざまなものにあることを証明したのだ。
改めて調べてみると、初めに見たシダは、細長い葉が集まって大きな細長い葉を形成しており、次のカリフラワーでは特にその一種・ロマネスコの花蕾(からい)は幾何学的で、個々のつぼみが規則正しく螺旋(らせん)を成して円錐(えんすい)を成している。同じように、雪の結晶、積乱雲、海の大小の波、リアス式海岸線や、アマゾン川やナイル川のような大河、山脈(峰や頂、うねり、稜線=りょうせん=という起伏)、星々と銀河などは階層構造を成している。もちろん数学的概念のように無限の自己相似性があるわけではないものの、これらは複数段階で観測されるのである。
ここに即礼君は自然の神秘を感じたが、同時に「もしや、哲学や人間の歴史にも同じフラクタル構造が存在するのではないだろうか?」という考えが稲妻のように閃いた。古代からの思想の大きな流れと、ギリシャ時代、近代、そして現代に、相似的な思想や政治の展開があるからこそ、突然、自然のフラクタル構造のビジョンを観(み)たのではないだろうか。
こう思い当たって、フラクタル構造の解説を読み直してみると、確かにこの構造は、人間の世界にも観察できることがわかった。人体における肺の気管支、血管構造、神経回路、ヒトゲノムにも見られ、さらには、金融市場のチャートにも見られ、経済、組織、社会など社会科学の分野でも研究が進められているという。つまりは、自然と人間の双方において、小は細胞や結晶から大は銀河系まで、共通の数学的パターンが見いだせるのである。
――とすれば、思想や人間の歴史に同じパターンが存在していても不思議はない。歴史や思想史にもフラクタル構造があるのではないだろうか。でも、そのような説明はどこにもなかった。「これをフラクタル歴史構造と名付けよう」。この大略をメモした。「もしかすると、これは世界初の発見なのではないだろうか?」。いくら何でもそれは大言壮語の妄想ではないかとも思ったが、知的な興奮に襲われ、その晩は床に入ってもなかなか寝付けなかった。血流のドクンドクンという流れにフラクタル構造を感じ、その体感から逃れられなかったのである。
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(ⅲ)近代政治学の起点とされるマキャヴェリの『君主論』(1532年)は、「マキャヴェリズム」という言葉に象徴されるように、一般に権謀術数の肯定として知られている。「君主は、狐の狡知(こうち)とライオンの勇猛さを備えるべきだ」や、「君主は愛されるよりも恐れられる方がより安全である」という表現は人口に膾炙(かいしゃ)している(いずれも『君主論』第18章・第17章に基づく意訳)
(ⅳ)現在の国際法は、基本的人権や普遍的正義といった理念を前提としているが、リアリズムでは国際法を「力による支えがなければ実効性をもたない不完全な規範」と見なす(モーゲンソー『国際政治』)
プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究院長、千葉大学公共研究センター長で、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘(しょうへい)教授兼任。専門は公共哲学、政治哲学、比較政治。2010年に放送されたNHK「ハーバード白熱教室」の解説を務め、日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。日本ポジティブサイコロジー医学会理事でもあり、ポジティブ心理学に関しては、公共哲学と心理学との学際的な研究が国際的な反響を呼んでいる。著書に『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『アリストテレスの人生相談』(講談社)、『神社と政治』(角川新書)、『武器となる思想』(光文社新書)、『ポジティブ心理学――科学的メンタル・ウェルネス入門』(講談社)』など。