栄福の時代を目指して(4) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

新年の大計:栄福を実現するための包括的学問

皆様は新年を迎えてどのような抱負を持たれただろうか。私は喪中なので正月らしい祝い事は控えたが、この1年と言わず、10年以上にも及びそうな大計を立てた。その核心は、「栄福の時代に向けて」、人々の栄福を実現するための哲学と社会科学の包括的な学問を樹立する、というものだ。この哲学や学問体系を「栄福哲学」や「栄福学」と呼ぶことにしよう。

もっとも、新年の抱負は大きければ大きいほどいいという考え方もあり得るが、これは大きすぎるかもしれない。「言うは易(やす)し、行うは難(かた)し」という文句がこれほど当てはまる目的も少ないからだ。新年の初夢として言うのは簡単だが、これは実際には極めて実現困難な学問的大事業だ。目覚めてみれば夢だった、という笑い話になりかねない。

近代ならカントやヘーゲルといった哲学者や、経済学や政治哲学や社会学の始祖たち(アダム・スミス、ジョン・ロック、マックス・ヴェーバーなど)のような社会科学の知的巨人の後では、こういった巨大なスケールの学問は出現していない。それどころか、学問が高度に細分化されて発展した現在では、そのようなことは不可能だと一般的に思われている。もし若い研究者がこのような抱負を語ったら一笑に付されるのが落ちだろう。

しかも、今日(こんにち)の政治哲学の主流(リベラリズム)では、価値観・世界観が多様な世界において、包括的な哲学を形成して社会の基礎にすることはそもそも無理だから、価値観や世界観に関わるような哲学は括弧(かっこ)に入れておいて、政治に関してはとりあえず人々が合意できる正義を探究しようと考えている。とすれば、政治哲学では包括的な哲学そのものを考究する必要は少なくなってしまう。そのような学問的潮流に抗して、あえて哲学から始めて学問の再構成を企てるのは至難の業だ。

でも、時代はそういった挑戦を求めているように思える。中東やウクライナにおける戦火に続いて、世界の中心国だったアメリカでトランプ政権が1月20日に再び発足した。これについては前回に書いたが、今までの常識ではあり得ないことだ。先進国でも、自由主義や民主主義といった基礎的な仕組みすら揺らいでいる。このような危機の時代には、従来の常識に安住せず、新しい時代を開拓するために、不可能に挑戦することが必要だ。あえてこの壮大な夢を粘り強く追うことにして、この連載で輪郭を描いていくことにしよう。いわば「栄福学・序説」になり得れば幸いである。

「人間を幸福にする学問」の探究:栄福学・序説

『利害を超えて現代と向き合う』最終回(第90回)で書いたように、高校の頃、「人間を幸福にする学問とは何か」という問題意識をもって政治学を志した。卒業文集では、社会科学の学問体系へのビジョンを夢想して書いた。さらに、研究者の道を歩み始めた頃、大学構内の有名な銀杏(いちょう)並木を歩いている時、唐突に、‟人間を幸福にするためには政治学だけでも不十分で、哲学を学ぶ必要がある“という想念が浮かんできた。同時に、政治学者を志していたにもかかわらず、自分が将来、哲学者になるような気もしたのだが、あまりにも奇想天外だったので、真剣に考える気にはなれず、とりあえず教養として哲学書を読むことにした。

当時、日本の政治学では、政治思想史の伝統はあったが、政治哲学の研究はさほどなされていなかった。戦前以来、大学では法哲学の講義はしばしばなされていたが、政治哲学の講義はなかったのである。そこで私も哲学はさほど深く学んでいなかったが、このような思いに触発されて、近代の大哲学者(カントやヘーゲルなど)の著作をはじめさまざまな哲学を渉猟し始め、政治哲学の著作も手に取った。後に研究した政治哲学(共和主義)の著作に初めて出会い、書評を書くことも考えた。マイケル・サンデルの初めの著作に出会って惹(ひ)かれたのも、この頃だ。

とはいえ、政治哲学という分野が日本ではほとんどなかったから、私が本格的に研究したのは比較政治の主題(恩顧主義)だった。哲学的な問題意識が再び触発されたのは、30代初めにケンブリッジ大学に研修に行き、政治哲学者(レイモンド・ゴイス)などの講義を聴講した時だ。イギリスで政治哲学を本格的に学び、政治哲学や「社会科学の哲学」を導入しようと考えた。

そして帰国後に、そのような試みをささやかながら開始した。さらに公共哲学の知的運動に携わる中でサンデルとも知遇を得て、やがて『ハーバード白熱教室』がNHKで放送され、多くの人々がその対話型講義に関心を持った。その講義を解説した私は、それを契機にして彼の政治哲学、さらには政治哲学そのものが広く知られるように努めた。

振り返ってみると、ここには運命の不思議さを感じざるを得ない。サンデル・ブームが起こったために、私はテレビやラジオにも呼ばれて出演し、政治哲学を語るとともに、その観点からの時評や日々のニュースのコメントすら行った。これは予想もしない展開で、サンデルへの注目は政治哲学の存在と意義を多くの人々が初めて認識する機縁にもなったのではないだろうか。他の研究者の方々の尽力もあって、幸い政治哲学の普及という目的は実現し、この学問分野が日本で存在感を持つようになったと思っている。

さらに、前の連載で書いてきたように、サンデルや私の展開している政治哲学(コミュニタリアニズム)を科学的なポジティブ心理学と架橋して、つまり、哲学と科学の架橋を図って「哲学的科学」を提起した。ポジティブ心理学はウェルビーイング(幸福感)を中心概念とするから、「幸福を実現する学問」という原点の問題意識が、いよいよ現実化したわけだ。

でも、改めて思い返せば、かつては「幸福を実現する学問」のためには政治学だけではなく、哲学そのものが必要だと考えたのだった。政治哲学はこの両者の接点をなしているが、哲学の全体ではない。そこで、父の死を契機に、さらに視座を拡大し、哲学を起点として、この目標に挑戦しようと思い立ったわけである。

そこで、連載『栄福の時代を目指して』では、この課題にも立ち向かっていきたい。ただ、哲学というと、難しい学問と感じる人も多いだろう。確かに哲学用語を使うと意味がわかりにくくなりにくい。そこで、なるべく専門用語は使わずに書き、関心のある人向けには括弧内で補足したり、※などで注記する形で進めていくことにしよう。

哲学の本論は難解になりやすいので、デカルトの『方法序説』(岩波文庫、1997年)やカントの『プロレゴメナ』(岩波文庫、1977年)のように、平易に説明する著作が必要になる。そのような意味で「栄福学・序説」になり得れば幸いである。

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