栄福の時代を目指して(3) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)
画・国井 節
動乱の世界:アメリカを支配するポピュリズム
連載『栄福の時代を目指して』2回目では、日本政治に生まれた「栄福政治への夜明け」という可能性について述べた。3回目では、世界全体のビジョンについて述べよう。前者には希望を感じても、世界全体の動向には不安を感じている人が多いに違いないからである。二つの大学で授業において学生に質問の時間を設けたところ、案に相違して、当該の授業内容に関してよりも、今の内外の状況について私の考えを聞きたいという声が相次いだ。例えば、総選挙、兵庫県知事問題、ドナルド・トランプ大統領再選、日米関係、ウクライナ問題、中東問題、韓国の戒厳令布告、シリアの政変……というように。前回、日本政治には総選挙で民主主義回復という曙光(しょこう)が射(さ)したと述べたが、地球全体を見渡すと、混沌(こんとん)としており決して明るい図柄は浮かんでこない。この激動や混沌とした状況が、これまで政治に大きな関心を持たなかった若年層にも、政治的関心を高めたのだろう。
トランプ大統領の2回にわたる当選は、民主主義の模範的国家・アメリカという常識的イメージを突き崩すものだ。公共哲学という概念の創始者ウォルター・リップマンは、「文明的品性(シヴィリティ)の哲学」と公共哲学を説明したが、トランプ氏の言動は、虚言や暴言、大言壮語、攻撃的言辞に満ちており、前回大統領選の結果を疑って議会占拠事件を暗に応援したり、司法的訴追を受けたりしている(小林正弥監訳ウォルター・リップマン『公共哲学』勁草書房、2023年参照)。ここに文明的礼節はないから、その考え方は公共哲学とは言えず、自由民主主義の理想に背いている。このような政治こそ、ポピュリズムの典型であり、アメリカ第一主義を掲げるそのような人物が二度にわたってアメリカの指導者になるわけだ。バイデン政権の方針を覆して、ウクライナへの支援を止(や)めたり、世界各国の関税を引き上げたり、日本にさまざまな圧力をかけたり、中東の動揺を加速させることが心配されている。
リベラリズムの敗北と西洋民主主義の危機
前回に日本政治についてリベラリズムでは勝てないと書いたが、前回大統領選挙におけるクリントン夫人の敗北と同様に、カマラ・ハリス副大統領の敗北は、典型的なリベラルの政治家はアメリカでも大統領選挙で勝利できないことを示している。ハリス氏は、女性でアフリカ系(ジャマイカ系)であり、選挙戦術として女性であることは強調しなかったものの、多様性やマイノリティー尊重というリベラリズムの特徴を体現している。民主党は、かつては貧困者や少数派の支持政党とされていたが、今やリベラルな高学歴層の支持政党となってしまい、逆に貧困者や少数者のかなりの部分がトランプ大統領を支持するようになってしまっている。その大きな理由は、リベラルな理性的主張が貧困や経済的状況悪化に苦しむ人々の心に訴えず、逆にトランプ氏の感情的で粗暴な振る舞いの方に救いを感じたからである。
つまり、理性的議論だけでは勝利を得ることはできず、感情や道徳への訴えが必要なのだ。これらこそ、リベラリズムを批判するコミュニタリアニズム、徳義共生主義が重視するものである。アメリカでも、バラク・オバマ元大統領のように、「変革(チェンジ)」への道徳的な希望を灯(とも)す政治家は勝利することができた。リベラリズムには、コミュニタリアニズムが批判するような論理的弱点があるが、その弱点が、実際には感情や道徳で動いている多くの人々の心の琴線に触れないが故に選挙で勝てないという現実的弱点として現れているのである。
そして、この難点が、苦しむ人々の感情に訴えるポピュリズムの勝利をもたらし、超大国・アメリカの民主主義を危機に陥らせている。否(いな)、アメリカだけではない。イギリスでも、ボリス・ジョンソン元首相のようなポピュリズム的指導者が国政を握り、フランスでも極右のマリーヌ・ルペン氏が大統領選挙で二度(2017年、22年)にわたって決選投票に進出し、ドイツでも極右政党「ドイツのための選択肢」が近年に躍進した。英米仏独といった西洋の主要国においてすら、ポピュリズムが席捲(せっけん)し、民主主義の理想が総崩れになってしまっているのである。
文明の衝突がもたらしている戦乱と混乱
他方で、世界で起こっている戦乱は、ことごとく『文明の衝突』(サミュエル・ハンチントン、集英社、1998年)と関係している。ロシアのウクライナへの侵略は、ウクライナのNATO(北大西洋条約機構)加盟問題が引き金になっているところからもわかるように、ロシア文明と西洋文明との緊張に文化的な淵源(えんげん)を辿(たど)ることができる。
イスラエルのハマスに対するガザ攻撃やヒズボラへのレバノン攻撃、イランとの相互攻撃が、西洋文明とイスラーム文明との衝突に大きく影響されていることが、言わずもがなであろう。シリアのアサド政権の崩壊は、この政権がロシアとイランに支援されていて、上記の戦乱によってこの両国が消耗したために支援が弱体化したことに一因がある。つまり、これも文明の衝突の波及(はきゅう)効果なのである。とはいえ、勝利した反政府組織・シャーム解放機構(HTS)は、西洋文明寄りというわけではなく、イスラームの影響が強い。そもそも、その前身だったアル・ヌスラ戦線は、アルカイダの直系組織であり、それとは決別したものの、イスラーム原理主義の影響が強いのである。だからこそ、アサド独裁政権の崩壊を西洋諸国は単純には喜べず、政府崩壊を機にイスラエルやアメリカが武器を過激派にわたらないように軍事目標を空爆し、イスラエルはゴラン高原非武装地帯を占拠したわけだ。