利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(76) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

規則とみなす硬直的道徳と成熟した柔軟な道徳

「優先席に座るべきではない」と大使を批判した人は、このようなルール(規則)が鉄道会社によって定められていると考えていることになる。これは硬直的な道徳観ということができるだろう。

実際には鉄道会社は、ここまで明確なルールを定めているわけではない。それにもかかわらずこのような考え方をする人には、お上が定めて守らなければならないものを道徳とみなす傾向があると思われる。お上とは国や政府を指すことが多いから、「公=国・政府」とすれば、公が定める道徳は「公道徳」である。会社は国ではないが、「硬直的道徳」にはこのような発想が現れているわけだ。国や会社のような他者が決めている道徳という点で、これは「他律的道徳」だ。

でも、もし混んでいなければ、優先席に座っても、誰にも支障はない。だから、このような硬直的道徳は不合理だし、会社もそこまで求めているわけではない。もし周辺に譲るべき人が来たら、譲ればいいだけだ。

通常の席はかなり埋まっていて、優先席だけ空いている場合はどうだろうか。日本人は恥の感覚が強いから、譲りにくいと思って、予(あらかじ)め座らない人もいるだろう。個々人の自由だから、それでも構わない。

でも、コロナ禍のような時には、隣の人との社会的距離を置いた方が感染防止に有益だから、通常席に座るよりも優先席に座った方がいいかもしれない。硬直的道徳や、恥に基づいて座らない人は、この点では望ましくない行動をしていることになりかねない。

これに対して、譲るべき人がそばに来たら譲るという気持ちで優先席に座る方が、感染防止のような公共的な善に寄与するだろう。だから、このような道徳の方が、理性的で成熟した、柔軟な道徳と言えるだろう。

この場合、予め決まったルールに従っているというわけではないから、自分で自律的に行動方針を定めて道徳的行為をしていることになる。これは「自律的道徳」とも言えるだろう。

文明的礼節を支える公共的美徳

憂えるべき傾向は、優先席に座っている人が、前述のような交通弱者がそばに来ても、譲らない光景をしばしば見かけることだ。その人が実は体調不良だったり疲れていたり障害があったりする場合もあり得るから、一概に非難することはできない。でも、明らかに健康で元気そうなのに、譲らない人も目にする。

このような場合は、まさに道徳性がないから座っていることになる。不道徳な人ということだ。

優先席とはあくまでも「お願い」だから、それに従わなくても罰則があるわけではない。明確な(他律的)ルール違反というよりも、むしろマナー違反であり、まさに礼節を欠いていることになる。弱者に席を譲るという行為は、多くの文明的な社会に存在するマナーないし礼節だろう。その点でまさに「文明的礼節」なのである。

逆に言えば、自律的道徳に基づいて、座っていても席を譲る行為は、文明的礼節にかなっており、褒められるべき美徳を有していることになる。つまり、公共的な美徳が発揮されているわけだ。

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