現代を見つめて(54) 読書の秋 文・石井光太(作家)

読書の秋

――国語が乱れている。

近年、日本ではそう感じない人が増えているという。

文化庁の調べでは、一九九九年に同様の回答をした人は八十五・八%だったが、二十年後の二〇一九年には六十六・一%にまで下がっている。これは国語のレベルが上達したからではない。乱れていても気にしない、あるいは乱れていることに気づいていない人の割合が高まっているのだ。

国語力は、単なる文字の読み書きにとどまらず、人間が社会で生きるために必要な総合力だ。

文部科学省は、国語力の中核を「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」としている。言葉によって自分の思考を整理し、読書から培った共感性で他者を思いやる心を持ち、適切な表現でコミュニケーションをとる。それを国語力と呼ぶ。

赤ん坊はそれができないから親の気持ちを考えずに泣きわめくしかないが、成長に伴って様々な言語体験を重ね、社会性を養っていく。大人になった時に、思考する力、他者に対する共感力、将来を見通す目、そして問題解決の能力を身につけられるかどうかは、国語力の発達が大いに関係しているのだ。

「身体には鍛錬、心には読書」

そんな名言を残したのは、イギリスの文学者ジョゼフ・アディソンだ。

私は、国語力は必ずしも書物によってのみ養われるものだとは思っていない。時代の流れの中で、スマホやパソコンで文字を読み書きする機会が増えるのは自然なことだし、人と意見を交わして養う国語力もある。

ただし、現在私たちがインターネットを通して触れている日本語は、本当に先のような力を養うものになっているだろうか。

デジタル教育が進んでいないこともあり、OECD(経済協力開発機構)の調査では十五歳の日本人の読解力は、この二十年のうちでもっとも低い十五位に沈んでいる。

近年、社会を取り巻く状況は激変しているが、国語力を養う環境は取り残されたままだ。これではいくら物事が便利になっても、社会を生き抜く力は脆弱(ぜいじゃく)にならざるをえない。

いま一度、国語力をつけるという観点から、家庭、学校、社会の取り組みを考え直すべきだと思う。

プロフィル

いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)、『原爆 広島を復興させた人びと』(集英社)など著書多数。