『現代を見つめて』(41) 「学校へ行く」ことの価値とは 文・石井光太(作家)

「学校へ行く」ことの価値とは

毎年九月の夏休み明けになると、メディアは一斉にこう報じる。

「学校が嫌なら、無理してまで行かなくていい」

九月に子供の自殺が多いことから、数年前からそうした呼びかけが行われているのである。

だが、学校は「嫌なら」という理由だけで行かなくていいものなのだろうか。そもそも学校って何なのだろう。

学校は“勉強”を学ぶ場であると同時に、生き方を学ぶ場だと思う。学校は社会と同様にルールがあり、考え方の異なる子供や教師がおり、時には成績やスポーツなどの競争にさらされることもある。大半の子供たちは、思い通りにならないことから「居心地の悪さ」を感じるだろう。

だからこそ、子供たちは自分を理解してもらおうと人付き合いをし、意見を言う術(すべ)を学ぶ。クラスや部活の中で自分の役割や居場所を見つける。コミュニケーションによって自分自身を認めてもらえる努力をするのだ。

こういう経験があるからこそ、人は大人になった時に、社会で同じことができるようになる。社会だって学校同様に居心地のいい場所ではない。だからこそ、自分で居場所を見つけ、アイデンティティーを確立させて、環境を良くしていかなければならない。そういう意味では、学校は、社会で生きる術を身につけるための場なのである。

無論、子供たちの中には何かしらの問題を抱え、他の子と同じように居場所を見いだせず、「死にたい」と思うほど苦しむ子もいるだろう。そういう子が、学校へ行かない選択をするのは大賛成だ。その子にはその子なりの生き方が別にある。ただ、そうではない子にとって、学校は生きる術を学ぶための貴重な場所なのだ。

私は今の学校教育が完璧だとは思っていないし、改善の余地があることは間違いない。だが、それを差し引いても、学校には学校にしかできない役割はあるし、困難を乗り越えた先に得られるものは大きいと思っている。

単純に、「居心地が悪いから学校はダメだ」「嫌なら行かなくていい」というのではなく、もう一度学校へ行く価値って何だろうと、この九月に考えてみてもいいのではないだろうか。

プロフィル

いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)、『原爆 広島を復興させた人びと』(集英社)など著書多数。