利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(21) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

坂本龍馬も西郷隆盛も議会設立論者

「会議」が議会という意味に捉えられていったのは、自由民権運動が起こって、民間から議会の開設要求が高まり、明治憲法発布とほぼ同時期に議会(国会)が開設されたからだ。でも、その潜在的な可能性はすでに五箇条の御誓文に潜んでいた。しかもこのような考え方は、坂本龍馬にも西郷隆盛にもあった。

坂本龍馬が大政奉還を実現するために上京した際に船の中で述べた新国家構想「船中八策」(1867年)は有名だ。第二条は「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」である。この後半部分では「御誓文」の第一条とほとんど同じ言葉が使われている上に、上下両院による議会政治が、より明確に表現されている。
西郷隆盛も、朝鮮半島に出兵する征韓論を主張したり、西南戦争を起こしたりしたことに目が向けられて「軍部独裁や侵略戦争」の元祖のようなイメージがこれまで形成されていたが、実像は大きく異なることが最近、明らかになった。

幕末維新期に、西郷は対外政策では「冷静かつ合理主義的」、国内政治では「民主的で進歩的」な考えを持っており、攘夷(じょうい)は一度も唱えずに、勝海舟との会談で「公議会」論を、そして大政奉還のわずか5カ月前に薩土盟約(1867年)で上下二院制構想を支持して、その翌月にはイギリスの外交官に「国民議会」の必要性を論じた(坂野潤治『西郷隆盛と明治維新』講談社現代新書、2013年、186-187頁)。この二院制は、公卿(くぎょう)と大名からなる上院と、各藩の家臣からなる下院のことだから、実際には実現せずに、西郷自身が主導して廃藩置県を断行するに至った。

けれども坂本龍馬や木戸孝允、西郷隆盛といった維新の立役者たちが、西洋の政治体制をモデルにして二院制の議会の設立を構想していたことには、改めて振り返るべき意義がある。専制政府を打倒した後に実現しようと彼らが思い描いたのは、公共的な議論に基づく議会政治だったのだ。

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