利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(7) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)
画・国井 節
市民宗教とはなにか?〔1〕
かつて、多くの宗教の究極の夢は、国家や世界全体にその教えを広めて宗教国家をつくり、理想世界を実現することだった。日本でも古くは、聖徳太子が十七条憲法をつくって、仏教を中心に据えた国家の理想を示したとされている。近代国家では、憲法で国教を定めることは許されないから、このようなビジョンを掲げることは難しい。それに代わる公共的理想はありうるだろうか?
宗教団体の公共的活動として、地域の環境・福祉などのボランティアや政治的・社会的活動などを活性化させることがあると第2回で述べた。これらを積極的に行っている団体は「公共宗教」と呼ばれ、社会から高い評価を得ている。もちろん一つの組織だけではなく、なるべく多くがそのような活動を繰り広げることが望ましい。
今日の世界では、主として先のようなことが公共的な宗教の役割として考えられている。古代にあったような国教は、公共的な宗教ではなく、公的な宗教だ。一方、近代国家では政教分離の原則により、これは認められない。特定の宗教が国家と結びつくと、他の宗教を抑圧したり、宗教間の紛争が生じたりしやすいからだ。西洋では、キリスト教の内部や、イスラームなどの他の宗教との間で宗教戦争が起こったから、その悲惨な歴史的経験に基づいてこの原則が形成されたのだ。今の日本でも、靖国神社への首相や大臣などの参拝が問題となるのは、このためだ。
では、現代では宗教は政治や国家と完全に分離していなければならないのだろうか。実はそうではない。政教分離とは、“特定の”宗教と国家との分離を意味している。だから国家と結びつかない限り、宗教が政治的活動を行うことには問題はない。また、特定の宗教が国家と結びつかない限り、宗教的な精神や理念が一般的に国家に影響を与えることにも問題はないのだ。
このことを示しているのが「市民宗教」という概念である。もともとは近代の民主主義の代表的理論家であるルソーが提起し、優れた宗教学者だったロバート・ベラーがこの概念を今日に甦(よみがえ)らせた。それは、政治の底にある宗教的次元を指している。政教分離の原則が初めに確立したアメリカでは、このような意味における宗教的精神が政治の基礎に存在していたというのである。