【ルポ】歴史に向き合い感じた「戦争」の現実 学生部員が沖縄で平和学習
72年前の1945年9月7日、現在の嘉手納飛行場(沖縄市)がある場所で、米軍と沖縄の日本軍との降伏調印式が行われた。日本で唯一の地上戦となった沖縄戦。日米合わせて20万人以上が命を落とした。このうち、沖縄県民の死者は12万人を超え、県民の4人に1人が犠牲になった。立正佼成会では毎年、全国各地の青年たちが沖縄を訪れ、戦争と平和を考える学習会を実施している。今回、8月18日から20日まで沖縄を訪れた神奈川支教区の中学・高校生、大学生ら111人に同行。学習会の様子と青年たちの学びを紹介する。
戦跡と向き合う現代の学生たち
18日午前、那覇空港に到着してまもなく、学生たちはバスに乗り込み、沖縄県中部の読谷村に向かった。
1945年4月1日、米軍は沖縄本島西方の海域から、この読谷村一帯に上陸した。激しい攻撃の中で、住民は自然壕(ごう)のチビチリガマに避難。しかし、「米兵に捕まれば虐殺される」と教えられ、そう信じていた住民83人は翌2日、住民同士で殺し合い、集団自決した。さらに、2人が戦争の犠牲となった。
この日、「地域ガイド 風の会」の比嘉涼子さん(60)は、学生たちを集め、ガマで起こった悲劇や、戦後の米軍占領下での生活、さらに今も在日米軍施設の70.38%(今年3月31日現在、防衛省発表)が沖縄に集中する現状を説明した。そして、「君たちは、どう戦跡と向き合っていくのかな」と語り掛け、こう訴えた。「目の前で知人、愛する者同士が殺し合う光景を見た人たちが、戦争から38年後、口を開いたのはなぜか――。それは、皆さんみたいなかわいい子供や孫を持ったから。この人たちは戦争を風化させず、後世の人たちに同じ体験をさせないために、証言をしたのです。その人たちが心を削りながら話した思いを考えて、受けとめてほしい」。比嘉さんの表情は苦渋に満ちたものだった。
ガマの入り口横には、犠牲となった85人の氏名が刻まれた石碑が建てられている。中学2年生の女子は、「1歳の赤ちゃんも、私と年の近い子も亡くなっていました。時間がなくて、じっくり読めませんでしたが、全員の名前を見て、どんな人たちが生きていたのかをしっかりと目に焼き付けたかった」と話し、「生きていた証しを残したい」との碑建立の願いを受けとめていた。