特集◆相模原事件から1年――私たちに突き付けられたものは?(3) 仏教・山崎龍明師

浄土真宗本願寺派法善寺前住職で、武蔵野大学名誉教授の山崎師

昨年7月、神奈川・相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負う事件が起きた。元職員の被告(事件当時26歳)は事件前に、大島理森衆議院議長(当時)に宛て、自身の犯行は社会的に正当であるといった内容の手紙を送っている。事件後には、被告の感情の一部を肯定するかのようなインターネット上の書き込みも散見された。残忍な事件が起きた社会的背景について、宗教者を中心に話を聞く本特集。第3回は、世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)日本委員会平和研究所所長で、浄土真宗本願寺派法善寺前住職、武蔵野大学名誉教授の山崎龍明師にインタビューした。

人間の幸せとは何かを突きつけられて

――事件から1年が過ぎました

当時、一報を聞いた時は耳を疑い、あまりにも悲惨なことが起きたなと衝撃を受けました。ただ、詳しい報道がなされていくうちに、違う感慨も持つようになりました。

相模原事件の被告は、重度の障害者に対して「生きる価値はない」と考え、犯行は「社会のため」との思いで事件を起こしました。彼が犯行前に、大島理森衆議院議長(当時)に送った手紙や、犯行後に報道された本人の供述から分かるのは、彼にとって人間の幸せは「金と時間」であり、それが自由にどれだけ使えるかで、人間の生きる「値打ち」を判断したのです。主観的な人間観、幸福観に照らして人間を価値付けし、それに合致しないものは、不幸なのだから抹殺してもいい――そこには、人間の尊厳を大事にしていこうという考えはありません。

私は大学で教壇に立ち、40年ほど同和問題などに関わる中で、人に優劣を付け、弱者を抑圧していく差別の問題を見てきました。この事件の根にあるものと共通性を感じ、また、現代社会の風潮に照らして、残念ながら起こるべくして起こったとも感じました。

――起こるべくしてとは、どのようなことからですか?

人に対して、「いる・いらない」「使える・使えない」といった言葉をよく耳にしますが、人間を「値打ち」で測る、価値付けするという状況が今、この世のあらゆる所で起こっています。

特に、現代では、企業や事業などさまざまな物事に対して経済的な価値付けがなされており、それが人間にも当てはめられています。労働生産性や利益といった側面だけがクローズアップされ、それに長(た)けた人間が「値打ち」があるとされているように感じます。それは被告の「金と時間」という価値観と共通するものです。

仮に、それによって困っている人や過酷な状況にある方に手が差し伸べられるのであれば、まだ良いのですが、生活保護バッシングなどに見られるように、弱者が排除・阻害されていく、あるいは弱い立場の人がさらに弱い立場の人を手厳しく非難していく現象が続いています。経済成長が行き詰まりを見せ、格差が広がり、人々の生活がきゅうきゅうとしていく中で、人々の意識も、経済偏重の社会の価値観に影響を受けて、「価値のあるものは認めるが、そうでないものは疎外されても仕方がない」というものになってきたのではないでしょうか。この傾向が強まっていると感じる要因の一つとして、事件後に容疑者の意識に同調する人が、インターネットの書き込みなどで少なからずいたことが挙げられます。

また、日本には過去、水俣病等の公害問題がありました。まさに、経済を優先するために、あるいは多数の利益を優先するために一部の人を犠牲にしたわけです。東日本大震災に伴う原発事故で、福島の人々は大きな被害を受けていますが、現代も同じ構図で、いのちの阻害といった事態が起きていないといえるでしょうか。

これらの社会状況が、被告の意識に何ももたらさなかったとは言えないでしょう。単なる一人の青年による特異な事件と考えてはいけないと思います。

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