分裂と憎悪を乗り越えるために 比叡山宗教サミット30周年 祈りの集いの講演から

『暴力的過激主義に宗教者はどう立ち向かうか』
ウィリアム・ベンドレイ・世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)国際委員会事務総長

宗教的過激主義は、暴力を正当化するために宗教を悪用しています。暴力による事件や犯罪、そこにある屈辱の感情が報道されると、人々の敵意や憎悪が増幅され、社会の分断をもたらします。これによって多くの人の敵意があおられ、暴力的な宗教的過激主義が魅力を強めるという「悪循環」に陥っています。

こうした現状に対して、エジプト人ムスリムのナギー・イブラヒム博士のエピソードが、私たちの教訓になります。

イブラヒム博士は、原理主義組織「イスラーム聖戦機構」のリーダーで、宗教の名を用いた暴力を教導しました。そして、イスラエルとの平和条約を締結したエジプトのサダト大統領の暗殺などに加わった罪で、懲役25年の刑に処されます。しかし、イブラヒム博士は、獄中で自らの信仰の基礎を探求し、大きな転換と言える宗教的な「目覚め」を得ます。これは、後に修正主義と呼ばれる思想で、<イスラーム国家建設を暴力に訴えることは、非イスラーム的で、間違いである>という概念を有します。この思想は、イスラーム世界の大きな運動を促し、二つの過激派組織がこの思想を採用しました。

以降、修正主義を採用したイスラームの聖戦士指揮官はエジプト政府の支援を受け、国内の刑務所を巡り、彼らの信奉者たちに会って修正主義を説きました。イブラヒム博士もワークショップを開きました。結果、約2万人の若い聖戦士の暴力的な態度や信念を変えることができたのです。

ここで重要なのは、イスラームが自ら、暴力という「病」に対して、修正主義という「薬」を処方した点です。歴史を振り返れば、どの宗教も暴力的過激主義に冒されやすいことが分かります。特定の宗教の名において暴力的過激主義が実行される場合、信者が、自らの宗教の中に過激主義という病の解毒剤を探すのが賢明なのです。

宗教の誤った解釈のほか、社会や経済の構造による貧困や教育機会の喪失、個人や集団に対する侮辱から生まれる心理的作用が、暴力的な宗教的過激主義の「原動力」になっています。ここでは、多様性を持った宗教的な対応が有用です。相違を認め、関心事を分かち合うことで、共に行動できることを示します。諸宗教が連帯し、他者を敵視するのではなく、精神的な味方と認識できることを明らかにするのです。

宗教的伝統は、人間の尊厳が頻繁に侵害され、公益が利己主義によって骨抜きにされていることを知っています。他者の幸福のために自己犠牲を払い、平和のために無実の苦しみに耐え、善をもって悪に報い、赦しを与え、普遍的な愛情や思いやりを示す。こうした宗教的伝統が持つ精神的美徳は、傷ついた人間の尊厳を回復させ、損なわれた公益を再建することができるのです。

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